カール・フリードリヒ
Karl(Carl) Friedrich, Карл Фридрих
ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ大公 Großherzog von Sachsen-Weimar und Eisenach (1828-)
生:1783.01.22/02.02−ヴァイマール(テューリンゲン、ドイツ)
没:1853.06.26/07.08(享年70)−ベルヴェデーレ(ヴァイマール近郊、ドイツ)
父:カール・アウグスト 1757-1828 ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ公(1758-1815)・大公(1815-28)
母:ルイーゼ・アウグステ 1757-1830 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世)
結婚:1804−サンクト・ペテルブルグ
& マリーヤ・パーヴロヴナ大公女 1786-1859 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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マリーヤ・パーヴロヴナと | |||||||
1 | カール | 1805-06 | − | ||||
2 | マリーア | 1808-77 | 1827 | カール | 1801-83 | プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 | ドイツ諸侯 |
3 | アウグスタ | 1811-90 | 1829 | ヴィルヘルム1世 | 1797-1888 | プロイセン王(1861-88)・ドイツ皇帝(1871-88) | ドイツ諸侯 |
4 | カール・アレクサンダー (大公) | 1818-1901 | 1842 | ソフィア | 1824-97 | オランダ王ウィレム2世 & アンナ・パーヴロヴナ大公女 | 君主 |
ドイツの領邦君主カール・アウグストの第三子(長男)。ルター派。
母ルイーゼは、1773年に時のロシア皇太子パーヴェル・ペトローヴィチ大公に振られて売れ残った。パーヴェル・ペトローヴィチ大公が選んだのはその姉ヴィルヘルミーナ。長姉アマーリアも振られ組で、よって皇帝アレクサンドル1世の妃エリザヴェータ・アレクセーエヴナもカール・フリードリヒの従姉妹である。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770-1840)の従兄弟。皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナの父ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ2世(1777-1848)は又従兄弟。
ザクセン=ヴァイマール大公家の歴史は複雑である。
そもそもザクセンとは、現在のニーダーザクセン州、ドイツ北西部を指した。しかし歴代のザクセン公の所領が東に偏っていたため、徐々にザクセンという地名はズレていく。15世紀にザクセン選帝侯となったヴェッティン家の所領は、本来のザクセンにはなく、その東部のスラヴ人居住地にあったが、ここがのちにザクセンと呼ばれるようになった。
ヴェッティン家は16世紀に分裂。一方はザクセン選帝侯家として現ザクセン州を所領とした。もう一方はかつてのテューリンゲン東部を所領とし、複数の分家に分裂。ザクセン=マイニンゲン公家、ザクセン=アイゼナハ公家、ザクセン=ゴータ公家などで、そのうちのひとつがザクセン=ヴァイマール公家である。長幼の順からすればヴェッティン家の本家であり、ザクセン=アイゼナハ公領とザクセン=イェナ公領を併せたため、ほかの分家よりはまだ恵まれていた。
父はゲーテの親友で、宰相として招いたことで知られる。母も «大方伯妃» の娘であり、カール・フリードリヒは両親の薫陶の下に啓蒙主義者として成長した。
父の時代ヴァイマールはドイツ文化の一大中心地だった。しかしナポレオン戦争を経てザクセン=ヴァイマールのかつての栄光も色褪せつつあった。
それでもゲーテは1832年の死までヴァイマールにとどまったし、指揮者ヨハン・ネポムク・フンメルも1837年の死までヴァイマールの宮廷楽団で活躍している。
カール・フリードリヒ自身も1848年にフランツ・リストを招き、宮廷楽団の指揮者・作曲家として登用するなど、父の文化政策を引き継いでいる。一時期リヒャルト・ヴァーグナーがヴァイマールに身を寄せたのも、フランツ・リストが招いたため。『ローエングリン』の初演もヴァイマールにおいてである。
政治面では、1828年、父の死で大公位を継ぐと、カール・フリードリヒはまず財政再建のために支出の切り詰めを始める。同時に産業の育成、法治主義の徹底、教育改革にも力を注いだ。ちなみに、この改革が奏功して、1848年の三月革命ではヴァイマールではさほどの騒動が起きなかった。