ロマーノフ家人名録

イヴァン・ニキーティチ・ロマーノフ

Иван Никитич Романов

ボヤーリン боярин (1605-)

生:1560s
没:1640.07.18/07.28(享年?)−モスクワ

父:ニキータ・ロマーノヴィチ・ユーリエフ=ザハーリイン -1586
母:エヴドキーヤ公女? (アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴルバートィー=シュイスキー公

結婚:ウリヤーナ公女 -1650 (フョードル・リティノフ=モサーリスキー公)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ウリヤーナ・フョードロヴナと
1アンドレイ-1609
2ドミートリー-1610
3プラスコーヴィヤ-1611
4イリーナ-1615
5プラスコーヴィヤ-1621
6ニキータ1607-54?
7イヴァン-1625
8マルファアレクセイ公1610-42イヴァン・ミハイロヴィチ・ヴォロトィンスキー公リューリコヴィチ

ニキータ・ロマーノヴィチの子(何番目かは不明)。
 イヴァン雷帝(1530-84)の最初の妃アナスタシーヤ・ロマーノヴナの甥で、ツァーリ・フョードル1世の従兄弟。
 フョードル・ニキーティチ(モスクワ総主教フィラレート)の弟で、ロマーノフ家最初のツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチの叔父。
 «カーシャ Каша» と呼ばれた。

 1598年にツァーリとなったボリース・ゴドゥノーフ(1552-1605)はロマーノフ兄弟を危険視した。このためカーシャは1601年、兄フョードル・ニキーティチと同様、流刑された。
 フョードル・ニキーティチは長兄ということで特にボリース・ゴドゥノーフから警戒されたのだろう。修道士にさせられ(これにより世俗とは切り離され、もはやツァーリになることはできなくなった)、アルハンゲリスクに送られた。弟たちは、修道士にはならずに済んだものの、シベリアに送られた。
 イヴァンが送られたのはペルィム。しかし1602年にはニージュニー・ノーヴゴロドに移された(ヨーロッパ・ロシアに戻されたわけで、あるいは刑が軽減されたということか)。
 ロマーノフ兄弟の中でこの追放を生き延びて生還することができたのは、長兄のフョードル・ニキーティチ(いまや修道士となってフィラレート)とカーシャだけだった。カーシャとともにペルィムに流された兄のヴァシーリーは、結局モスクワに帰ることは叶わなかった。

 1605年、カーシャは偽ドミートリー1世により «親族» として釈放され、ボヤーリンとされた。偽ドミートリー1世が殺されるとヴァシーリー・シュイスキー(1552-1612)を支持。コゼリスク総督を務め、偽ドミートリー2世軍と戦う。
 1610年、ヴァシーリー・シュイスキーをツァーリから追い、«セミボヤールシチナ» の一員としてモスクワを支配する。

 1613年の全国会議では、カーシャはツァーリとしてスウェーデン王子カール・フィリップを支持する。

カール・フィリップ(1601-22)は、スウェーデン王グスタフ2世・アドルフ(1594-1632)の弟。1609年、ポーランド軍に対抗するため時のツァーリ・ヴァシーリー・シュイスキーに招かれたスウェーデン軍は、その後ノーヴゴロドを中心に北西ロシアを占領していた。その後ヴァシーリー・シュイスキーを廃位した «セミボヤールシチナ» がポーランド王太子ヴワディスワフにツァーリの位を提供すると、これに対抗するためグスタフ2世・アドルフが弟カール・フィリップをツァーリ候補として推す。反ポーランド感情の強い多くの人々(モスクワ解放の英雄ドミートリー・ポジャールスキー公など)、特に大貴族がこれを支持した。

 しかしこれにはコサックなどがカーシャの甥ミハイール・フョードロヴィチを推して反発。これに対してカーシャは、「Тот есть князь Михайло Федорович еще млад и не в полне разуме. (ミハイールなんてのはまだ若すぎて分別も備えていない)」などと言って反対した。
 このため、新たにツァーリとなったミハイール・フョードロヴィチの治世では、フィラレートを除けば唯一のロマーノフであったにもかかわらず、冷や飯を食わされた。

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