ヨアン・コンスタンティーノヴィチ
Иоанн Константинович
大公 великий князь (1886)
公 князь императорской крови (1886-)
生:1886.06.23/07.05−パーヴロフスク
没:1918.07.17-18(享年32)−アラパーエフスク
父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
結婚:1911−ペテルゴーフ
& エレーナ・ペトローヴナ 1884-1962 (セルビア王ペータル1世)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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エレーナ・ペトローヴナと | |||||||
1 | フセーヴォロド | 1914-73 | 1939 | メアリ | 1910-82 | ウィリアム・リゴン | イギリス人 |
1956 | エミリア | 1914-93 | ゴシュトニャ・イェネ | ハンガリー貴族 | |||
1961 | ヴァッリ | 1930- | キリール・クヌースト | デンマーク人 | |||
2 | エカテリーナ | 1915-2007 | 1937 | ノビーレ・ルッジェーロ | 1909-70 | ファラーチェ・ディ・ヴィッラフォレスタ侯 | イタリア貴族 |
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第一子(長男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従兄弟。
かれの名は、現代ロシア語ではイヴァン Иван で、ヨアンは古形。イヴァンではなくヨアンとされたのは懐古趣味なのか。家族内での呼び名は «ヨアンチク Иоаннчик»。
生まれた時には大公だったが、生後9日にして皇帝アレクサンドル3世の勅令により大公の称号と特権が剥奪され、単なる公となった。新しい勅令によれば、皇帝の子と内孫だけが大公の称号を許され、曾孫以下は公とされたからである。
幼少より病弱で、しばしばクリミアにある父の所領オレアンダで静養した。
とはいえ当然ロマーノフ家の男子として軍人となることが定められており、1900年には陸軍幼年学校に入学。さらにニコラーエフ騎兵学校に進み、1907年に卒業。
父大公は敬虔な正教徒で、母もルター派ではあったが敬虔さでは夫に劣らず、ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公たちは両親から厳格な宗教教育を受けた。
特にヨアン・コンスタンティーノヴィチ公は敬虔で、若い頃から将来を聖職者と定めていた。1906年には正教会のイポディヤーコン иподьякон になった(ディヤーコン дьякон が正教会の最下級の聖職者で、司祭の補佐を勤める。イポディヤーコンはさらにその補佐)。
当然そのまま聖職者の道を進むと考えられていただけに、1911年にヨアン・コンスタンティーノヴィチ公がエレーナ・ペトローヴナ公妃と結婚した時にはみなびっくりしたという。
ちなみに結婚後もムラーモルヌィー宮殿で両親と同居した。
第一次世界大戦では前線に従軍。革命が勃発した時にも前線にいた。
十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、当初はロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを禁じるだけで満足していた。しかし1918年春には国内流刑へと方針変更。4月、ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公は弟コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公、イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ公、さらにセルゲイ・ミハイロヴィチ大公、ヴラディーミル・パーレイ公とともにヴャートカに送られる。この時、妃エレーナ・ペトローヴナ公妃も子を母エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃に預けてヨアン・コンスタンティーノヴィチ公に同行している(夫の流刑に同行した妻は彼女だけ)。
ヴャートカでの生活は比較的自由なものであった。しかし4月最後の日にかれらはエカテリンブルグに転送される。数日後、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃が合流。
エカテリンブルグでもそれなりの自由が認められたが、当然、当時イパーティエフの家に監禁されていた皇帝一家との接触は禁じられた。
5月半ばには、エカテリンブルグの北方にあるアラパーエフスクに再転送された。ロマーノフ一族を一ヶ所にまとめておく危険性を認識したのだろう。ここでもかれらは街中を歩くことを許されるなど、比較的自由に暮らすことができた。とはいえヨアン・コンスタンティーノヴィチ公は、これまでついてきていたエレーナ・ペトローヴナ公妃をペトログラードに送り返す。おそらく自分たちがこの先どうなるか予想されたのだろう。
6月に入り、白衛軍がウラルに接近するにつれ、かれらに対する規制も強化されていく。6月13日、ペルミでミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が処刑される。7月17日から18日にかけての夜、エカテリンブルグで皇帝一家が処刑されたちょうど次の晩、アラパーエフスクでヨアン・コンスタンティーノヴィチ公らも処刑された。
ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公の遺骸は、直後にここを占領した白衛軍により回収され、アラパーエフスキー大聖堂に改葬された。しかし1920年になって、敗退する白衛軍により持ち去られ、イルクーツクを経て、最終的には北京の聖セラフィーム・サローフスキー大聖堂に再埋葬された(現在は取り壊されて公園になっている)。