ロマーノフ家人名録

イリーナ・ミハイロヴナ

Ирина Михайловна

ツァレーヴナ царевна

生:1627.04.12/04.22−モスクワ
没:1679.01.29/02.08(享年51)−モスクワ

父:ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチ 1596-1645
母:ツァリーツァ・エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナ 1608?-45 (ルキヤーン・ステパーノヴィチ・ストレーシュネフ)

結婚:なし

子:なし

ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチの第一子(長女)。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの姉。

 受けた教育と言えば、読み書きと手芸程度。別にイリーナ・ミハイロヴナがバカだったとか父親が娘の教育をないがしろにしたとかいうことではなく、当時のロシアではこれが当たり前だった。

 1644年、デンマーク王クリスティアン4世(1577-1648)の息子クリスティアン・ヴァルデマール(1722-56)との結婚話が持ち上がり、ヴァルデマールはモスクワへ。
 ロシアの «王族» と外国の王族との結婚は、1495年にイヴァン大帝の娘エレーナがリトアニア大公アレクサンドラス(ポーランド王アレクサンデル)と結婚して以来絶えてなかったこと。歴代のツァーリに娘がなかったためで、クセーニヤ・ゴドゥノーヴァが唯一の例外である。
 ミハイール・フョードロヴィチが外国王族を娘婿にしようと考えた背景には、1639年に次男、三男が相次いで死に、王朝の維持が危うくなっていたことがあると言われる。つまり、国内の利害関係とは無縁な外国王族を娘婿とし、万一に備えようとしたというのだ。だとすると、なかなかいい相手を選んだと言える。クリスティアン・ヴァルデマールは貴賎結婚から生まれた子なので、公式には王子ではなく、デンマーク王位継承権も持たない。将来、王朝的な問題が発生する可能性はほとんどないということだ。
 しかし、150年前には大した問題ともならなかった信仰の問題がこの時は大きく立ちはだかった。つまり、ミハイール・フョードロヴィチが、ヴァルデマールの正教への改宗を要求したのである。もし、前述のように、ヴァルデマールを万一の際のツァーリ候補として考えていたとすれば、正教への改宗は譲れない点であったろう。これに対してヴァルデマールがルター派信仰の維持に固執して交渉は難航し、結局話は立ち消えになってしまった(ヴァルデマールは事実上の監禁状態に置かれ、ミハイール・フョードロヴィチの死後にようやく帰国することができた)。
 これが、翌年のミハイール・フョードロヴィチの死にも影響を与えたとも言われている。
 もしこの話が実現していれば、150年ぶりの外国王家との婚姻関係となったのだが、実際にロシアの «王族» が外国の王族と結婚をするまでには、さらに70年待たなければならない。

ちなみになぜデンマークかと言うと、おそらくはスウェーデンを共通の敵とする、という点が大きかったのだろう。海ではデンマークはすでに80年前からスウェーデンに圧されており、1643年にはスウェーデンがデンマーク本土に侵攻。この戦争は1645年に終わるが、これ以後デンマークはスウェーデンに勝利したことがない(もっとも何をもって勝利と言うかにもよるが)。

 その後イリーナ・ミハイロヴナはクレムリンのテレムノーイ宮殿で «行かず後家» として生涯を送る。ツァーリの権威がイヴァン大帝以前から格段に高まったため、簡単にロシア貴族に降嫁させるわけにもいかなかったのだろう(日本で天皇の娘が公家と結婚できなかったのと同じだ)。
 ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの姉として高い地位を与えられたが、政治に口をはさむことはなかった(家庭内のことを任されたりと、アレクセイ・ミハイロヴィチから信頼され大きな影響力を持ったらしいが)。祖母の修道女マルファから贈られた所領ルプツォーヴォ(ポクローフスコエ)で園芸にいそしんだりウスペンスキー女子修道院を建てたりしている。
 1672年、アレクセイ・ミハイロヴィチに新たに生まれた男の子の教母となる。のちのピョートル大帝である。

 ロマーノフ家代々の墓所ノヴォスパースキー修道院に葬られている。

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