ロマーノフ家人名録

グリゴーリイ・アレクサンドロヴィチ・ポテョームキン

Григорий Александрович Потемкин

伯 граф (1774-)
公 Herzog (1776-)
タヴリーチェスキイ公 светлейший князь Таврический (1783-)
陸軍元帥 генерал-фельдмаршал (1784-)

生:1739.09.13/09.24−チジョーヴォ(スモレンスク県)
没:1791.10.05/10.16(享年52)−ヤシ近郊(現ルーマニア)

父:アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・ポテョームキン 1673-1746
母:ダーリヤ・ヴァシーリエヴナ・コンドィレヴァ 1704-80

愛人:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96

結婚:なし

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エカテリーナ2世・アレクセーエヴナと
1エリザヴェータ・テョームキナ1775-イヴァン・カラゲオルギ1766-ギリシャ人

スモレンスクの下級貴族。正教徒。
 女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの5人目の愛人。

伝承によると、ポテョームキン家の祖先はポーランド出身で、16世紀からモスクワ大公に仕えているという。と言っても、これと言って名を残した人物はいない。

 幼少で父を亡くし、母によりモスクワで育てられる。
 1755年には開学したばかりのモスクワ大学付属ギムナジウムに入学し、成績優秀で女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにも紹介された。しかし1760年に放校(この時一緒に放校されたのがニコライ・ノヴィコーフ)。
 セミョーノフスキイ連隊に勤務し(ノヴィコーフはイズマイロフスキイ連隊)、1762年、女帝エカテリーナ2世のクーデタに参加。近衛少尉となる。以後、軍人として、同時に国家官僚(宗務院総裁補佐官など)としても活躍。1763年に失明して隻眼。
 露土戦争(1768-74)に従軍し、将軍に昇進。

 1774年、モスクワに呼び戻され、エカテリーナ2世の愛人となる。軍事参事会副議長となり、伯の称号を与えられた。1776年にはエカテリーナの要請により、皇帝ヨーゼフ2世から帝国貴族 Reichsfürst として認められ、公の称号を与えられた。
 17年間にわたり、エカテリーナを除いてロシア最大の権力者であった。一説によれば、1775年前後にふたりは秘密結婚をしたとも言われている(証拠はない)。

 おそらくエカテリーナの愛人たちの中で、もっとも(唯一?)有能だったと言っていいだろう。軍人・政治家として、エカテリーナの傍らで、あるいは各地で、辣腕を振るう。
 1774年、プガチョーフの乱の鎮圧を指揮。1775年にはザポロージェ・コサックのシーチを廃止。
 1776年、ノヴォロシヤ県、アゾーフ県、アーストラハン県の総督に任命され、現地に赴く。同時に、エカテリーナの愛人の後任として、ピョートル・ザヴァドフスキイを、次いでイヴァン・リムスキイ=コールサコフを推す。以後、アレクサンドル・ランスコーイアレクサンドル・エルモーロフアレクサンドル・ドミートリエフ=マモーノフと、相次いで彼の息のかかった人間を愛人として送り込み、愛人関係は終わったものの、エカテリーナに対する公私にわたる影響力は保持した。自身は肉体関係を持たないながらも、君主のベッドに次から次へと自分で見つくろった人物を送り込んで政治的実権を保持した様は、まさにポンパドゥール夫人さながらである。

ポンパドゥール夫人ジャンヌ・ポワソン(1721-64)は、平民出身の下級貴族の夫人。フランス王ルイ15世(1710-74)の «愛人» の地位を20年にわたって保持したが、彼女がルイ15世と肉体交渉を持っていたのは最初の5年間ほどらしい。以後は «女衒屋» に徹して、ルイ15世に対する大きな影響力を行使した。なお、正確にはポンパドゥール侯爵だったのは彼女の夫ではなく彼女自身。なのでポンパドゥール «夫人» という日本語訳は不適切。madame というフランス語を無批判に訳したものだろう。

 アーストラハン県はすでに16世紀にイヴァン雷帝によってロシアに併合されていたし、アゾーフ県も女帝アンナ・イヴァーノヴナの治世にロシア領となってから久しい。しかしいずれもノガイ、ドン・コサック、カルムィク人などが跳梁跋扈していて、完全に支配体制に組み込まれてはいなかった。そしてノヴォロシア県は、相次ぐ露土戦争の結果併合したばかりの南ウクライナの地である。南方には依然としてクリム・ハーン国とオスマン帝国が控えており、カスピ海からカフカーズ山脈北麓を経て黒海北岸に続くこの地域の平定、開発は緊急の課題となっていた。
 特に黒海北岸のノヴォロシアは、いまやロシアの属国になったとはいえクリム・ハーン国がその南方に健在で、いまだ併合されざる西ウクライナ(の一部)を併合し、さらにバルカン半島へと進出していこうとするロシアにとってはなおさら平定、開発が重要な地域であった。
 グリゴーリー・ポテョームキン公はクリム・ハーン国への干渉を強め、1783年にこれを併合した。その功績によりタヴリーチェスキイの名前を与えられた(ポテョームキン=タヴリーチェスキイ。なお、タヴリーチェスキイとは «タヴリーダの» という形容詞。タヴリーダとはクリミア半島のこと)。
 以後、この地の «ロシア化» に尽力し、黒海北岸地方の開拓、黒海艦隊建設、港湾都市建設を推進。ヘルソン、ニコラーエフ、セヴァストーポリ、エカテリノスラーフ(ドニェプロペトローフスク)などの都市を建設した。

 1784年、軍事参事会議長として軍の最高責任者となったが、あいかわらず南方にとどまり続ける。その生涯最高の舞台は1787年のエカテリーナ2世の南方視察だったろう。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世や外国大使などを伴った一行は、はるばる陸路と河川を伝って黒海まで南下した。グリゴーリイ・ポテョームキン公はその途上にことごとく宿営のための施設を設け、娯楽を提供し、新領土の発展を強烈に印象づけた。政敵は、この時エカテリーナの目にした村々はすべて «張りぼて» だと主張し、この伝説は «ポテョームキン村 потемкинские деревни» という言葉になって残っている。
 露土戦争(1787-91)では全軍を指揮する。が、この時の活動ははかばかしくなく、ピョートル・ルミャーンツェフ元帥やアレクサンドル・スヴォーロフ将軍などの部下(いずれもポテョームキン公より年長で経験豊富だった)の活躍を妨げたとも言われる。
 1789年、反ポテョームキン派がプラトーン・ズーボフエカテリーナの愛人とする。とはいえ、エカテリーナ2世のグリゴーリイ・ポテョームキン公に対する信頼は揺らぐことはなかった。

 オスマン帝国とのヤシの講和交渉中、病死した。おそらくマラリアだと思われる。ヘルソンに埋葬された。

 それにしても、グリゴーリイ・ポテョームキン公は15年にわたってロシアで最も豊かな土地(確かに開発は遅れていたが)の総督として、70万に及ぶ人口とヨーロッパ領ロシアのほぼ4分の1にも達する領土、帝国最強の陸軍と海軍10万の上に政治的・軍事的に君臨したにもかかわらず、一度たりともエカテリーナ2世に反逆の不安を抱かせたことがない。この君臣の間の信頼関係は、希有のものであると言える。

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