ロマーノフ家人名録

グリゴーリイ・グリゴーリエヴィチ・オルローフ

Григорий Григорьевич Орлов

伯 граф (1762-)
公 Herzog (1763-)
公 князь (1772-)

生:1734.10.06/10.17
没:1783.04.13/04.24(享年48)−モスクワ

父:グリゴーリイ・イヴァーノヴィチ・オルローフ 1685-1746
母:ルケーリヤ・イヴァーノヴナ・ジノーヴィエヴァ

愛人:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96

結婚:1777
  & エカテリーナ・ニコラーエヴナ 1758-82 (ニコライ・イヴァーノヴィチ・ジノーヴィエフ)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エカテリーナ2世・アレクセーエヴナと
1アレクセイ・ボーブリンスキイ伯1762-18131796アンナ1769-1846ヴラディーミル・ウンゲルン=シュテルンベルク男爵ロシア貴族

ロシア貴族グリゴーリイ・オルローフの第二子(次男)。正教徒。
 女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの3人目の愛人。

オルローフ家は新興の地方貴族。グリゴーリイ・イヴァーノヴィチがノーヴゴロド県副知事となったのが最大の出世であった。

 1749年、セミョーノフスキイ連隊に入隊(ちなみに兄イヴァンはプレオブラジェンスキイ連隊)。七年戦争(1756-63)に従軍するが、1759年には砲兵にまわされ、ピョートル・シュヴァーロフ(のちの元帥)の下で活躍した。

 ちょうどまさに1759年、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを失ったエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の、3人目の愛人となる。

 グリゴーリイ・オルローフはエカテリーナに愛されただけではなく、軍隊仲間からも愛されていた。
 兄イヴァン、弟アレクセイ、フョードル、ヴラディーミルの5兄弟は、いずれも兄弟仲が良く、近衛兵からも篤い信頼を寄せられていた(末っ子ヴラディーミルを除いて七年戦争で活躍していた)。近衛連隊におけるかれらの存在が、1762年のクーデタで重要な意味を持った。
 1762年、いまや皇妃となったエカテリーナ・アレクセーエヴナは、皇帝ピョートル3世とは決裂状態にあり、離婚されるのも時間の問題だった。しかしピョートル3世の対外政策は不人気で、貴族の間にも危惧と不満が広がっていた。グリゴーリイらオルローフ兄弟は、近衛連隊を説いて皇妃支持でまとめあげる。こうして1762年、ピョートル3世を廃位してエカテリーナを女帝として即位させたクーデタでは、グリゴーリイらオルローフ兄弟が中心的な役割を果たした。
 その褒賞として、兄弟全員が伯爵の称号を与えられた。

イヴァン・グリゴーリエヴィチ(1733-91)は長男。父の死後その領地経営に追われ、かれだけは1762年のクーデタにかかわっていない。が、弟たちの功績で伯。
 アレクセイ・グリゴーリエヴィチ(1735-1807)は三男。ピョートル3世殺害の下手人。おそらく兄弟の中で最も軍事的才能(少なくとも指揮官としての才能)に恵まれていた。露土戦争(1768-74)では、黒海艦隊を持たないためバルト海艦隊を地中海に派遣する計画を建て、自ら遂行。オスマン海軍を撃破した(もっとも実際の艦船指揮は配下のグレイグとスピリードフがおこなった)。その功績でチェスメーンスキイの名前をもらう(オルローフ=チェスメーンスキイ)。タラカーノヴァ公女を捕えたのもかれ。1775年に兄グリゴーリイとともに引退。公。
 フョードル・グリゴーリエヴィチ(1741-96)は四男。伯。ふたりの息子アレクセイ(1786-1861)はニコライ1世の側近で第三部の長官、ミハイール(1788-1842)はデカブリストと、対照的な生涯を送ることになる。
 ヴラディーミル・グリゴーリエヴィチ(1743-1831)は五男。科学アカデミーのディレクトル(1766-74)。伯。

1770年にアレクセイ・オルローフ伯が計画し実行したオスマン海軍撃破の実際の功績は、スコットランド人のサムイール・カールロヴィチ・グレイグ/サー・サミュエル・グレイグ(1735-88)とグリゴーリイ・アンドレーエヴィチ・スピリードフ(1713-90)に帰するが、やはりこのふたりの一般的な知名度はさほどでもない。

 エカテリーナが女帝となって以後10年間、グリゴーリイ・オルローフは宮廷で絶大な勢力を誇った。神聖ローマ帝国の公爵とされ、ロシアの公位ももらい、砲兵総監(1765-75)などの栄誉も与えられた。
 実際、ふたりは10年にわたって夫婦のような生活を続けており、グリゴーリイ・オルローフは人前でも平気でエカテリーナを愛称形 «カーテャ» で呼んだ(当時は身分ある人々は家族であっても人前では «エカテリーナ・アレクセーエヴナ» と呼ぶのが一般的だった)。一説によると、グリゴーリイ・オルローフはエカテリーナ2世と結婚しようとしたと言われる。これに反対をしたのが重臣のニキータ・パーニン伯だった。エカテリーナに面と向かって「Императрица может делать что ей угодно, но госпожа Орлова никогда не будет русской императрицей.(女帝は好きなことができる。しかしオルローフ夫人がロシアの女帝であるなどあり得ない)」と言ったとか。
 しかしその一方で、エカテリーナは政治の枢要の部分はしっかりと自分で握っていた。ロシアには、傍若無人なグリゴーリイ・オルローフを、エカテリーナが気兼ねしつつもちゃんと操縦している、というイメージが流布している。
 実際、さまざまな栄誉は与えられたものの、グリゴーリイ・オルローフはこの期間、何ら実際的な仕事を任されてはいない。一兵士としての勇敢さはともかく、軍の司令官としての力量がどんなものだったのかはよくわからないし、およそろくな教育を受けていないかれが政治家としてエカテリーナを補佐できたとも思えない。

 1772年頃、女官をつまみ食いしていた事実が発覚し、エカテリーナから «離縁» された。1775年、宮廷から引退。
 なお、妃エカテリーナ・ニコラーエヴナは母方の従姉妹。

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