ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ・ユーリエフスキイ
Георгий Александрович Юрьевский
ユーリエフスキイ公 светлейший князь Юрьевский (1880-)
生:1872.05.12/05.24−サンクト・ペテルブルグ
没:1913.09.13/09.26(享年41)−サンクト・ペテルブルグ(マールブルク?)
父:皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
母:エカテリーナ・ミハイロヴナ・ユーリエフスカヤ公妃 1847-1922 (ミハイール・ミハイロヴィチ・ドルゴルーキイ公)
結婚:1900−ニース(1908離婚)
& ツァルネカウ伯女アレクサンドラ・コンスタンティーノヴナ 1883-1957 (コンスタンティン・フォン・オルデンブルク)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクサンドラと | |||||||
1 | アレクサンドル | 1900-88 | 1956 | ウルズーラ・アンネ・マリー | 1925- | トーマス・ベーア・フォン・グリュネック | スイス人 |
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチとエカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女の第一子(長男)。
皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの異母弟。ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの年少の叔父ということになる。
父からは «ゴーガ Гога» と呼ばれた。
両親の結婚は1880年のことで、ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチは私生児として生まれた。当然、姓も称号もなかったが、1880年の両親の結婚に際し、ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチは嫡出子とされ、同時にユーリエフスキイの姓と公の称号を与えられた(1874年に秘密勅令で与えられたとも言われる)。
1881年、父が暗殺される。もともと四面楚歌状態だった母は、ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ等を連れて外国へ。ニースに落ち着いた。リセ・コンドルセで学ぶ。1891年にはソルボンヌを卒業。
単身サンクト・ペテルブルグに移り、異母兄にあたるアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(異母兄たちの中で唯一母に好意的だった)に預けられ、海軍士官学校へ。1892年から海軍軍人として勤務する。
しかしどうにも使い物にならなかったらしく、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公も匙を投げている。
その後騎兵学校に入れられた。最終的には騎兵大尉。
ヴィスバーデン(ナッサウ、ドイツ)に葬られている。