ゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ・ロマーノフ
Георгий Константинович Романов
公 князь императорской крови
生:1903.04.23/05.06−サンクト・ペテルブルグ
没:1938.11.07(享年35)−ニューヨーク(アメリカ)
父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
結婚:なし
子:なし
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第七子(六男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従兄弟。
パーヴロフスクで育ったが、ニコライ2世の子らとはいい遊び仲間だった。
1914年、兄オレーグ・コンスタンティーノヴィチ公が戦死。1915年、義兄コンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキー公が戦死し、父が死去。1918年には4人の兄全員がボリシェヴィキーに捕らえられ、うち3人が処刑される(ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公のみ病気を理由に釈放される)。
この間、母と妹ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ公女とともにゲオルギー・コンスタンティーノヴィチ公はパーヴロフスクにとどまった。
1918年10月、スウェーデン王妃ヴィクトリア(オリガ・フョードロヴナ大公妃の姪)の要請を容れてボリシェヴィキーがゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ公等の出国を許可。ゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ公は、母や妹たちとともにストックホルムへ。
1920年、ブリュッセルへ。その後、母の実家アルテンブルクへ。さらに、スイスやイギリスを転々とし、最終的にはニューヨークへ。
長じてゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ公はインテリア・デザイナーとして生計を立てる。
健康にはあまり恵まれなかった。盲腸(?)の手術を受けた後、合併症で死去。