フリードリヒ・フランツ3世
Friedrich Franz Paul Nikolaus Ernst Heinrich, Фридрих Франц
メクレンブルク=シュヴェリーン大公 Großherzog von Mecklenburg-Schwerin (1883-)
生:1851.03.07/03.19−ルートヴィヒスルスト(メクレンブルク、ドイツ)
没:1897.03.29/04.10(享年46)−カンヌ(フランス)
父:フリードリヒ・フランツ2世 1823-83 メクレンブルク=シュヴェリーン大公(1842-83)
母:アウグステ 1822-62 (ハインリヒ63世・ロイス・ツ・シュライツ=ケストリツ)
結婚:1879−サンクト・ペテルブルグ
& アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女 1860-1922 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アナスタシーヤ・ミハイロヴナと | |||||||
1 | アレクサンドリーネ | 1879-1952 | 1898 | クリスティアン10世 | 1870-1947 | デンマーク王(1912-47) | 君主 |
2 | フリードリヒ・フランツ(大公4世) | 1882-1945 | 1904 | アレクサンドラ | 1882-1963 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公エルンスト・アウグスト1世 | ドイツ諸侯 |
3 | ツェツィーリエ | 1886-1954 | 1906 | 皇太子ヴィルヘルム | 1882-1951 | ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 | ドイツ諸侯 |
ドイツの領邦君主フリードリヒ・フランツ2世の第一子(長男)。ルター派。
皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859-1941)の従兄弟。
エレーナ・パーヴロヴナ大公女の曾孫。フリードリヒ・フランツの洗礼式にはその弟の皇帝ニコライ1世も参列している(ニコライ1世の妃はフリードリヒ・フランツの祖母アレクサンドリーネの姉アレクサンドラ・フョードロヴナ。つまりニコライ1世はフリードリヒ・フランツの大々叔父であると同時に大伯母の夫でもある)。
ドレスデンのギムナジウムを卒業し、ボン大学にて学ぶ。
普仏戦争(1870-71)に従軍。
1874年、姉マリーがヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公と結婚。その縁で、アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女と結婚することになった。
幼少より気管支喘息を患っており、そのため北海沿岸のメクレンブルクの気候に耐えられず、生涯の半分を南仏で過ごした。この辺は19世紀のロマーノフ家の人間と一緒である。
結婚後も、そして1883年に父の死で大公位を継いだ後も、フリードリヒ・フランツは健康上の理由からメクレンブルクにとどまることができず、イタリアや南仏を転々とした。
フリードリヒ・フランツは、自身メクレンブルクにいなかったということもあるが、ほとんど政治にタッチしなかった。
もっとも、たまに健康が許す時にはヨットで楽しんだらしい。
そんなこともあって、国民からは好かれたとは言えない。とはいえ、幼少時から知っているフリードリヒ・フランツには、国民も理解があったのだろう。妃アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女ほどの批判は浴びていないようだ。
1897年、死去。喘息の悪化とも事故ともされるが、自殺との説もある(だとしても動機は不明)。
ルートヴィヒスルストのヘレナ・パウロヴナ・マウソレウム(エレーナ・パーヴロヴナ大公女の霊廟)に埋葬された。