フョードル・アレクサンドロヴィチ
Федор Александрович
公 князь императорской крови
生:1898.12.11/12.23−サンクト・ペテルブルグ
没:1968.11.30(享年69)−アスカン(フランス)
父:アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公)
母:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
結婚:1923−パリ(1936離婚)
& イリーナ・パーヴロヴナ・パーレイ公女 1903-90 (パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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イリーナ・パーレイと | |||||||
1 | ミハイール | 1924-2008 | 1958 | ヘルガ | 1926- | ルートヴィヒ・シュタウフェンベルガー | オーストリア人 |
1994 | マリーア・デ・ラス・メルセデス | 1960- | |||||
2 | イリーナ | 1934- | 1955 | アンドレ=ジャン・ベル | 1923- | フランス人 | |
1962 | ヴィクトール・マルセル・スーラ | 1939- | フランス人 |
ミハイロヴィチ。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の第三子(次男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの甥。
1917年、二月革命はクリミアの父の所領アイ=トドルで迎える。一時は臨時政府により自宅軟禁状態に置かれた。1918年にはボリシェヴィキーに逮捕される危機もあったが、ドイツ軍、白衛軍により救われる。
1918年暮れ、第一次世界大戦が終結。パリで開催される講和会議に出席するため、父が出国した。この当時はまだボリシェヴィキー政権もいずれは崩壊するものと思われており、誰も国外亡命など考えてはおらず、そのままクリミアに残留した。
しかし1919年に入ると急速に情勢は悪化。白衛軍は赤軍に押され、ボリシェヴィキーの勢力は南ロシアに及んできた。このため1919年4月、イギリスの軍艦で、祖母の皇太后マリーヤ・フョードロヴナ、母、兄弟、さらにはニコラーエヴィチ一族とともに亡命した。
いったんは母とともにロンドンに亡命するが、その後パリに。姉イリーナ・アレクサンドロヴナ公女やその夫フェリクス・ユスーポフ公と親しくつきあった。
結核を病み、長期療養を余儀なくされた。
妻イリーナ・パーレイ公女は1930年頃からヒューバート・モンブリソンと関係を持ち、長女イリーナ・フョードロヴナ公女の父はフョードル・アレクサンドロヴィチ公ではなくヒューバートだとされる。