エヴドキーヤ・イヴァーノヴナ・チェルヌィショーヴァ
Евдокия Ивановна Ржевская, Чернышева
伯妃 графиня (1742-)
生:1693.02.12/02.22
没:1747.06.17/06.28(享年54)
父:イヴァン・イヴァーノヴィチ・ルジェーフスキイ
母:ダーリヤ・ガヴリーロヴナ・ソコーヴニナ
愛人:皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725
結婚:1710
& グリゴーリイ・ペトローヴィチ・チェルヌィショーフ 1672-1745
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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と | |||||||
1 | ナターリヤ | 1711-60 | 1743 | ミハイール公 | 1702-55 | アンドレイ・ベロセリスキイ公 | リューリコヴィチ |
2 | ピョートル | 1712-73 | エカテリーナ | アンドレイ・ウシャコーフ | ロシア貴族 | ||
3 | グリゴーリイ | 1717-50 | |||||
4 | ザハール | 1722-84 | 1762 | アンナ | 1744-1830 | ロディオーン・ヴェーデリ | |
5 | アンナ | 1724-70 | フョードル公 | セルゲイ・ゴリーツィン公 | ゲディミノヴィチ | ||
6 | イヴァン | 1726-97 | エリザヴェータ | オーシプ・エフィーモフスキイ | |||
アンナ | アレクサンドル・イストレーニエフ | ||||||
7 | エカテリーナ | 1734-91 | 1739 | ニコライ | キリール・マーテュシュキン | ||
P | グリゴーリイ・プレミャーンニコフ | ||||||
8 | マリーヤ | ミハイール | デブリャンスキイ |
リューリコヴィチ。第27世代とされるが、系図に混乱が認められる。正教徒。
ルジェーフスキイ家はスモレンスク公の末裔。ルジェーフの分領公だったが、モスクワ公の与党としてトヴェーリ大公に分領を没収され、公の称号を失う。その後はむしろモスクワ大公の宮廷貴族として、地方総督や軍司令官、外交使節を務める。
両親がピョートル大帝の «飲み仲間»。特に母親はピョートル大帝から «княжна-игуменья» という «称号» をもらったお気に入りだった(これはピョートル大帝の女性の «飲み仲間» では最高の «階級»)。
エヴドキーヤ・ルジェーフスカヤも、早くからピョートル大帝の取り巻きに加わり、やがてその «愛人» となっている。ピョートル大帝からは «Авдотья бой-баба» と呼ばれて可愛がられた(アヴドーティヤはエヴドキーヤが民間で崩れた形。бой-баба は «威勢のいい女» という程度の意味)。
ただし «愛人» とはいえ、ピョートル大帝の側にもエヴドキーヤ・ルジェーフスカヤの側にも特段の恋愛感情があったわけではない。«気のおけない仲間» という感覚だったのだろう。
1710年、ピョートル大帝の命令でその側近だったグリゴーリイ・チェルヌィショーフと結婚。
エヴドキーヤ・チェルヌィショーヴァはピョートル大帝のお気に入りのひとりで、絶大な影響力を持った。フランソワ・ド・ヴィルボワ(フランス人のロシア海軍軍人)によれば、「そのだらしない生活態度でピョートル大帝の健康に悪影響を及ぼした」ということらしい。
夫グリゴーリイ・チェルヌィショーフも妻のおかげで昇進。それどころか、時には皇帝の突発的な怒りをこうむったピョートル大帝の家族すらも、エヴドキーヤ・チェルヌィショーヴァの庇護を頼ったという。
女帝アンナ・イヴァーノヴナにも気に入られた(話し上手で女帝を楽しませたらしい)。
アレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬されている。