ロマーノフ家人名録

エリザヴェータ・フョードロヴナ (エリーザベト)

Elisabeth Alexandra Luise Alice, Елизавета Федоровна

ヘッセン大公女 Prinzessin von Hessen und bei Rhein
大公妃 великая княгиня (1884-)

生:1864.10.20/11.01−ダルムシュタット(ヘッセン、ドイツ)
没:1918.07.17-18(享年54?)−アラパーエフスク

父:ルートヴィヒ4世 1837-92 ヘッセン&ライン大公(1877-92)
母:アリス 1843-78 (イギリス女王ヴィクトリア)

結婚:1884−サンクト・ペテルブルグ
  & セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公 1857-1905 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ

子:なし

ドイツの領邦君主ルートヴィヒ2世の第二子(次女)。ルター派。
 家族からは «エラ Ella» と呼ばれた。

 遠い祖先テューリンゲン方伯妃聖エリーザベト(ハンガリー王女エルゼーベト。ドイツ騎士団の守護聖者。キエフ大公ムスティスラーフ・ヴェリーキーの曾々孫)にちなんで名づけられたせいか、幼少から信心深い少女だった(もっとも父方の祖母もエリーザベトといった)。
 また、ヘッセン=ダルムシュタットがさほど豊かではなかったこと、特に母アリスが祖母ヴィクトリアの小市民的価値観で育てられたことから、エリーザベトも質素な幼年時代を送った。ちなみに第一言語はドイツ語ではなく英語。

 美人として知られ、多くの求婚者がいたが(のちのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、バーデン大公フリードリヒ2世等)、それらを退けてセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公と結婚した。セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の評判が悪いのは、振られた男たちのやっかみが一因だとも言われる程だ。
 もっとも、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公との結婚に反対していたのは祖母のヴィクトリア女王も同様だ(そもそもヴィクトリアはドイツ人以外はみな嫌っていた)。これらのやっかみやら何やらが、いつの間にか «冷酷非常なセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公に迫害される薄倖のエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃» 像をつくりだしたと言っていいだろう。
 エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃自身は、その書簡の中で正反対であることを主張して、噂を否定している。少なくとも、姪のマリーヤ・パーヴロヴナ大公女の証言を信じるならば、夫の死後エリザヴェータ大公妃が見せた(と言うか、人には見せなかったようだが)悲嘆の姿は、彼女が夫を愛していたことを物語っている。

 結婚生活はサンクト・ペテルブルグ市内の宮殿で送ったが、夏場はモスクワ近郊にある夫の所領イリインスコエで過ごした。
 もともと、アレクサンドル2世の妃マリーヤ・アレクサンドロヴナはエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃の大叔母であり、しばしば里帰りする彼女が常に連れていたのがセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公とその弟パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公だった。このためエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃は幼少の頃からふたりを知っていた。やがてパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の妃となったアレクサンドラ・ゲオルギエヴナ大公妃とも仲良くなり、多くの時間を4人そろってイリインスコエで過ごすようになった。

 同年結婚したエリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃と同様、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃は結婚後もルター派信仰を保ったままだった。しかしセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公と同じく信仰心に篤く、1888年にはそろってイェルサレムに巡礼を果たす。のち、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃はここに葬られることを希望した。

 1891年は、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃とセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公にとって重要な年となった。
 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公がモスクワ総督に任命され、夫婦でモスクワへ。クレムリンに居住し、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃はここで積極的に慈善活動を展開。貧窮児童救済と女性の赤十字運動に尽力した。
 またこの年、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃はついに正教に改宗している。
 悲劇も襲った。イリインスコエを訪れていた義妹アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ大公妃が急死したのだ。エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃はセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公とともに、残された義弟パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公に代わって、遺児マリーヤ・パーヴロヴナ大公女ドミートリー・パーヴロヴィチ大公の世話をするようになる。
 のち、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公オリガ・カルノーヴィチと暮らすようになると、皇帝から正式に二子の後見人に任じられた。ただし厳格な性格が合わなかったのか、マリーヤ・パーヴロヴナ大公女は回想録の中でエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃を種々批判している(ドミートリー・パーヴロヴィチ大公の方は伯母に懐いたようだ)。

 1894年、末の妹アリックスが皇帝ニコライ2世と結婚。

 1905年、クレムリンを出たセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が社会革命党員イヴァン・カリャーエフの投じた爆弾で殺された。この時エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃は、雪原に散らばった夫の破片を血まみれになって拾い集めた。さらに捕らえられたカリャーエフに自ら面会し、また皇帝ニコライ2世にカリャーエフへの恩赦を願ったと言われる(結局カリャーエフは処刑されている)。

 1909年、モスクワ近郊のオルドィンカに土地を買い、修道院を建てて6人の修道女たちとともにここに移り住んで、慈善活動と救護活動に専念するようになる。1910年には自ら修道院長となり(修道名は変わらずエリザヴェータ)、1911年には正式にマルファ=マリーヤ修道院 Марфо-Мариинская Обитель Милосердия が創設された。病院も併設され、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃自身も手術に立ち会ったりしている。

 革命後、特に十月革命を受けて多くのロマーノフが国外に逃亡する中、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃は国外脱出を拒否。
 十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、ロマーノフ家の男子は拘束したものの、女子に対しては比較的自由を認めていた。唯一の例外がエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃であった。
 1918年4月、修道女ヴァルヴァーラ・ヤーコヴレヴァとともにペルミに送られる。そこから5月にエカテリンブルグへ。ここでコンスタンティーノヴィチ兄弟(ヨアン公コンスタンティーン公イーゴリ公)、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公ヴラディーミル・パーレイ公と合流。
 エカテリンブルグでもそれなりの自由が認められたが、当然、当時イパーティエフの家に監禁されていた皇帝一家との接触は禁じられた。
 5月半ばには、エカテリンブルグの北方にあるアラパーエフスクに再転送された。ロマーノフ一族を一ヶ所にまとめておく危険性を認識したのだろう。ここでもかれらは街中を歩くことを許されるなど、比較的自由に暮らすことができた。
 しかし6月に入り、白衛軍がウラルに接近するにつれ、かれらに対する規制も強化されていく。6月13日、ペルミでミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が処刑される。7月17日から18日にかけての夜、エカテリンブルグで妹一家が処刑されたちょうど次の晩、アラパーエフスクでエリザヴェータ大公妃らも処刑された。

 エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃の遺骸は、直後にここを占領した白衛軍により回収され、アラパーエフスキー大聖堂に改葬された。しかし1920年になって、敗退する白衛軍により持ち去られ、イルクーツクを経て北京へ。アラパーエフスクの犠牲者の遺体はここで再埋葬されたが、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃の遺骸のみは、彼女の生前の遺志に従い、イェルサレムのマリア・マグダレーナ教会に埋葬された。
 ソ連崩壊直後の1992年、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公女はヴァルヴァーラ・ヤーコヴレヴァとともに正教会によって聖女に列せられた。彼女の創設したマルファ=マリーヤ修道院は現在も存続している。

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