エレーナ・ペトローヴナ(イェレナ)
Jелена Карађорђевић, Елена Петровна
セルビア公女 кнегиња Србије (1903-)
公妃 княгиня императорской крови (1911-)
生:1884.11.04/11.16−フィウメ(現リイェカ、クロアティア)
没:1962.10.16(享年77)−ニース(フランス)
父:ペータル1世 1844-1921 セルビア王(1903-18)・ユーゴスラヴィア王(1918-21)
母:ゾルカ 1864-90 (モンテネグロ王ニコラ1世)
結婚:1911−ペテルゴーフ
& ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公 1886-1918 (コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公と | |||||||
1 | フセーヴォロド | 1914-73 | 1939 | メアリ・リゴン | 1910-82 | イギリス人 | |
1956 | エミリア・ゴシュトニャ | 1914-93 | Eugenius | ハンガリー貴族 | |||
1961 | ヴァッリ・クヌースト | 1930- | キリール・クヌースト | デンマーク人 | |||
2 | エカテリーナ | 1915-2007 | 1937 | ノビーレ・ルッジェーロ | 1909-70 | ファラーチェ・ディ・ヴィッラフォレスタ侯 | イタリア貴族 |
セルビア王ペータル1世の第一子(長女)。正教徒(セルビア正教会)。
弟はユーゴスラヴィア王アレクサンダル1世(1888-1934)。叔母イェレナ(1873-1952)はイタリア王ヴィットーリョ・エマヌエーレ3世(1869-1947)の妃。別の叔母が、ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃とアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃。
イェレナの誕生当時、セルビア王位はオブレノヴィチ家に握られており、その仇敵であったカラジョルジェヴィチ家の当主であった父はスイス、フランス、イタリアなどを転々としながら亡命生活を送っていた。イェレナとふたりの弟はモンテネグロの祖父のもとで育てられたが、その後も父は長くイェレナたちから離れて暮らした。父がオブレノヴィチ家からセルビア王位を奪回したのは1903年、イェレナ王女が18歳の時だった。
6歳の時に母を失くしたイェレナ王女は、サンクト・ペテルブルグの叔母ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃に引き取られ、ふたりの卒業したスモーリヌィー学院で学んだ。
ロシアで育ち、皇帝一家とも親しかったにもかかわらず、彼女をヨアン・コンスタンティーノヴィチ公に紹介したのはもうひとりの叔母、同じ名を持つイタリア王妃イェレナだった。ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公はふたつ年下で、もともと正教の修道士になる決意を公言していたほどだったが、イェレナ王女に一目惚れして、もう翌年にはふたりは結婚した。
ちなみに彼女は正教徒だったので、ドイツから来たほかの大公妃・公妃が経た改宗という試練を経験せずに済んだ。
ふたりはムラーモルヌィー宮殿に住んだ。
結婚後もエレーナ・ペトローヴナ公妃は自身の道を歩み、ペテルブルグ大学で医学を学んだ(ただし妊娠・出産で勉強は中断された)。
十月革命で権力を握ったボリシェヴィキーは、当初ロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを制限するだけで満足していたが、1918年春になると国内流刑に処することを決定。ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公もヴャートカへ、次いでエカテリンブルグへ、最終的にアラパーエフスクへ送られた。
ボリシェヴィキーはニコライ2世一家のほかにはエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃を逮捕しただけで、ロマーノフ家の女性には基本的に手を出さなかった。しかしエレーナ・ペトローヴナ公妃は自発的にヨアン・コンスタンティーノヴィチ公に同行(夫に同行した妻は彼女だけ)。子供たちは義母エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃に預けた。
エレーナ・ペトローヴナ公女は基本的には自由な身の上だったので、ボリシェヴィキーに拘束された夫たちとは別に、かれらの収監された家の近くに部屋を借り、日々面会し差し入れをし、また入手した情報を流したりしていた。この状態は1ヶ月にわたって続いた。
エカテリンブルグから移送されたアラパーエフスクで、先行きを覚悟したヨアン・コンスタンティーノヴィチ公は、それまで1ヶ月以上にわたって同行してきたエレーナ・ペトローヴナ公妃をペトログラードの子供たちのもとに追い返す。
しかしペトログラードに帰還しようとしたエレーナ・ペトローヴナ公妃はエカテリンブルグでボリシェヴィキーに逮捕される。すでに述べたようにボリシェヴィキーは原則的にロマーノフ家の女性には手出しをしなかったが、エカテリンブルグのボリシェヴィキーはロマーノフ関連では最強硬派だった。こうしてエレーナ・ペトローヴナ公妃は、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ、その姉エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃を除けば、ボリシェヴィキーに捕えられた唯一の女性となった。
白衛軍がエカテリンブルグに迫ると、ペルミに送られる。
エレーナ・ペトローヴナ公妃はノルウェーの外交官によって発見され、その介入によってペルミからモスクワに移された。ここでもしばらく監禁されていたが、最終的にスウェーデンへの出国が認められ、ストックホルムで子供たちとの再会を果たした。
祖国セルビアを経由してフランスに居住。その後、イギリスに落ち着いた。1937年、娘がイタリア人外交官と結婚したのを契機に、娘夫婦とともにイタリアへ。ローマに住んでいたが、第二次世界大戦後、フランスに移る。