エカテリーナ1世・アレクセーエヴナ(マルタ・スカヴロンスカ)
Martha Skavronska/Марфа Скавронская, Екатерина Алексеевна
ツァリーツァ царица (1712-21)
ロシア皇妃 императрица Всероссийская (1721-25)
ロシア女帝 императрица Всероссийская (1725-)
生:1684.04.05/04.15?
没:1727.05.06/05.17(享年43)−サンクト・ペテルブルグ
父:サムエル・スカヴロンスキ
母:ドロテア・ハン
結婚①:1702?
& ヨハン・リボ?
愛人:ボリース・ペトローヴィチ・シェレメーテフ伯 1652-1719
愛人:アレクサンドル・ダニーロヴィチ・メーンシコフ公 1673-1729
結婚②:1712−サンクト・ペテルブルグ
& 皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725
愛人:ヴィルヘルム・モンス 1688-1724 (ヨハン・モンス)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ピョートル1世・アレクセーエヴィチと | |||||||
1 | ピョートル | 1704-07? | − | ||||
2 | パーヴェル | 1705-07? | − | ||||
3 | エカテリーナ | 1707-08 | − | ||||
4 | アンナ | 1708-28 | 1725 | カール・フリードリヒ | 1700-39 | ホルシュタイン=ゴットルプ公(1702-39) | ドイツ諸侯 |
5 | エリザヴェータ(女帝) | 1709-61 | − | ||||
6 | ナターリヤ | 1713-15 | − | ||||
7 | マルガリータ | 1714-15 | − | ||||
8 | ピョートル | 1715-19 | − | ||||
9 | パーヴェル | 1717 | − | ||||
10 | ナターリヤ | 1718-25 | − | ||||
11 | ピョートル | 1719-23 | − |
出自は不明。ルター派。
皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの愛人のひとりであり、ふたり目の妃。ロシア最初の女帝。
本名は一般的にマルタ・スカヴロンスカとされる(ロシア語ではこれをマルファ・スカヴロンスカヤと発音する)。しかし名にしてもエレーナ(ヘレナ)との説もある。姓にしてもラベとするものもあり、ラベは最初の夫の姓だとするものもある(ただし兄弟やその子孫はロシア語でスカヴロンスキーを名乗っている)。
生まれた場所も、一般的にスウェーデン領リヴォニアとされるが、詳細については諸説ある。しかし現エストニアとする説が有力なようで、よく挙げられる地名にデルプトがある。
デルプト Дерпт は、ドイツ語でドルパート Dorpat。現在のタルトゥ Tartu。もともとは11世紀にキエフ大公ヤロスラーフ賢公によりユーリエフ Юрьев として建設された。
社会的な出自についても、一般的に農民とされているが、確かなことは言えない。父も、リトアニア人、ラトヴィア人などと言われるがはっきりしない。
ただし兄弟姉妹がいたのは確か(女帝となってのちサンクト・ペテルブルグに呼び寄せている)。
通説によると、両親の死後ルター派司祭エルンスト・グリュック(聖書をラトヴィア語に翻訳した)に養われた。と言うよりは、むしろかれに «仕えて働いた» と言うべきか。当然教育は受けず、生涯文盲。
最初の夫はスウェーデン軍の竜騎兵だとされる。その姓もはっきりせず、クルーゼ Cruse、ラッベ Rabbe など文献によって様々。要するにまともな記録が残っていないのだろう。ロシア軍が結婚の直後にマリエンブルク(現アルクスネ、ラトヴィア)を占領し、マルタの結婚生活は2日間しか続かなかった、というのはよく語られるエピソードであるが、証拠はない。
マルタは占領軍の司令官ボリース・シェレメーテフ元帥に仕えるようになったが、それが愛人としてなのか単なる女中としてなのかは不明。
マルタがアレクサンドル・メーンシコフ公の愛人となったのは翌1703年。シェレメーテフ元帥から「金で買われた」とよく言われる。ただし、当時メーンシコフ公に婚約者(のちの妻)がいたことから、マルタとアレクサンドル・メーンシコフ公との関係については疑いを挟む向きもあるようだ。
いずれにせよ、ピョートル1世がマルタと出会ったのはメーンシコフ邸でのことであった。そしてすでに1703年のうちに、マルタはピョートル1世の愛人となっている。
当時ピョートル1世は愛人アンナ・モンスとの関係が破綻した前後だった。ピョートル1世にはアンナ・モンスと暮らしていた頃から、彼女以外に多数の愛人がいたようだ。マルタはそのひとりとなったわけだが、幾多の愛人の中でマルタが最もピョートル1世にマッチしたらしい。同じように大酒のみで、陽気で、ピョートル1世の突発的な怒りにも泰然自若として対処できた辺りが気に入られた理由だろう。
1705年、ピョートル1世はマルタをプレオブラジェンスコエ村の妹ナターリヤ・アレクセーエヴナのもとに住まわせる。ここでマルタは正教の教義を学び、1707年頃に改宗。エカテリーナ・アレクセーエヴナの名と父称をもらった(名は、教母となったツァレーヴナ・エカテリーナ・アレクセーエヴナから。父称は、教父となったツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチから)。またこの頃、アレクサンドル・メーンシコフ公と結婚したダーリヤ・アルセーニエヴァと親しく交際するようになった。
1707年、ピョートル1世と秘密裏に結婚。この結婚の時点で、エカテリーナ・アレクセーエヴナが正教に改宗していたか否かははっきりしないが、この前後であることは確か。
ロマーノフ家の人間と結婚した異教徒はエカテリーナ・アレクセーエヴナが最初だったが、これ以降、結婚に際しても正教に改宗せず、異教徒のままにとどまる婿・嫁ばかり。エカテリーナ・アレクセーエヴナに続いて結婚に際して正教に改宗したふたり目は、もうひとりのエカテリーナ・アレクセーエヴナが初となった。この間、ロマーノフ家もロシアも国際的な立場がまだ脆弱だったことが、婿・嫁(特に嫁)に改宗を強制できない要因だったのだろう。
なお、細かいことながら、結婚以外の理由でロマーノフ家に入った異教徒は正教に改宗している(アンナ・レオポリドヴナとピョートル3世)。
1711年、プルート河畔の戦いにエカテリーナ・アレクセーエヴナも従軍。圧倒的なオスマン軍に包囲されたロシア軍は講和を結んで撤退することができたが、これはエカテリーナ・アレクセーエヴナがオスマン帝国の宰相を買収したためだとも言われている。少なくともピョートル1世はこの時のエカテリーナ・アレクセーエヴナの功績を最大限に讃え、1713年には彼女にちなんで聖エカテリーナ勲章を制定。エカテリーナ・アレクセーエヴナ自身を第1号の叙勲者としている。
1712年、公式に結婚。結婚式ではまだ幼い娘アンナ・ペトローヴナとエリザヴェータ・ペトローヴナがエカテリーナ・アレクセーエヴナの付き添いを務めた。
1724年、エカテリーナ・アレクセーエヴナは皇妃として戴冠される。ロシアでツァーリ・皇帝の妃が戴冠されるのは、偽ドミートリー1世の妃マリーナ・ムニーシェク以来ふたり目(これはポーランドの慣習を持ちこんだだけのことで、ロシアでは定着していなかった)。
ロシア語では императрица という単語は «皇妃(皇帝の妃)» と «女帝(女性の皇帝)» の双方を意味し得るが、通常この区別はない。この時エカテリーナ・アレクセーエヴナはピョートル大帝の共同統治者として戴冠したとされているが、何分皇妃の戴冠というのは2度目(事実上初)のことであり、«共同統治者» というのが皇妃としての地位を表す単なるレトリックなのか、それともローマ帝国やビザンティン帝国で見られたような文字通りの共同統治者を意味していたのか(つまりこれによってロシアに皇帝がふたりいることになったのか)、そこの辺りがはっきりしない。と言うのも、もし後者であるとすればピョートル大帝の死後後継者を云々する必要も意味もないからだ(すでにエカテリーナ・アレクセーエヴナが女帝であったのだから)。
いずれにせよ、この時点ではおそらくピョートル大帝は、エカテリーナ・アレクセーエヴナを自身の後継者と考えていたのではないかと推測される(すでにツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチは1718年に死去。その子ピョートル・アレクセーエヴィチ大公は9歳。エカテリーナ・アレクセーエヴナとの間に生まれた息子ピョートル・ペトローヴィチも前年に死んでいた)。
しかしまさにこの年、ピョートル大帝とエカテリーナ・アレクセーエヴナの仲は急速に悪化する。きっかけはヴィルヘルム・モンス(ピョートル大帝のかつての愛人アンナ・モンスの弟)。かれはエカテリーナ・アレクセーエヴナに仕えていたが、ピョートル大帝への取次ぎを願う貴族たちから賄賂をもらっていた咎でこの年処刑された。エカテリーナ・アレクセーエヴナとヴィルヘルム・モンスとは愛人関係にあったとも言われる。
その後娘エリザヴェータ・ペトローヴナの取り成しでピョートル大帝とエカテリーナ・アレクセーエヴナは和解したとも言われるが、その一方でピョートル大帝がエカテリーナ・アレクセーエヴナを廃してマリア・カンテミール公女と結婚しようとしていた、とも言われ、実情は不鮮明である。1725年早々のピョートル大帝の死でエカテリーナ・アレクセーエヴナが救われた、と見ることもできる。
「皇帝が後継者を指名する」という新しい継承法を定めたくせに、ピョートル大帝は自らの後継者を指名せず死去。
ピョートル大帝の改革政権は、それにより恩恵を受けた一派とこれに反対する一派との激しい対立を後に残した。ピョートル大帝の改革に反対する «保守派» は主に旧い大貴族から成り、男系の長子継承法(ロシアの皇位継承は慣習的にこれに従っていた)に基きピョートル・アレクセーエヴィチ大公(のちの皇帝2世)の皇位継承を主張。これに対してピョートル大帝により地位と財産を得た連中は下級貴族や平民出身者、外国人から成り、その政権を維持してくれる候補としてエカテリーナ・アレクセーエヴナを推した。最終的に、ピョートル大帝自身が創設したプレオブラジェンスキー連隊やセミョーノフスキー連隊などの近衛兵がエカテリーナ・アレクセーエヴナの側につき(エカテリーナ・アレクセーエヴナは兵隊に人気があった)、エカテリーナ・アレクセーエヴナの即位が実現した。
ただし、エカテリーナ・アレクセーエヴナは戴冠式は行っていない。1724年の戴冠式をもって女帝としての戴冠は済んでいる、と考えたのか。
エカテリーナ1世には、ロマーノフ家の血は一滴も流れていない。それどころか、リューリク家の血も、おそらくはロシア人の血すら流れていなかったであろう。それにもかかわらず夫の死後皇位を継いだという点では、もうひとりのエカテリーナ・アレクセーエヴナとまったく同じである。
しかしエカテリーナ2世にはエカテリーナ1世という先例があったものの、エカテリーナ1世の場合はまったく先例のない即位である。にもかかわらず、特に問題もなく即位できた背景には、ひとつにはツァレーヴナ・ソフィヤ・アレクセーエヴナという、女帝ではなかったにせよ最高権力を握った女性がいた «先例» があったからでもあろうし、またすでにピョートル大帝の晩年に(どういう意味合いであったにせよ)戴冠式を済ませていたということもあったろうし、またそのピョートル大帝の定めた皇位継承法が世襲の原則をまったく無視したものであったことも理由として挙げられよう。
さらに想像される点として、たとえば皇妃(ツァリーツァ)の地位の向上、あるいはさらに女性一般の地位の向上というものもあったのかもしれない。
エカテリーナ1世個人に特有の点としては、1711年以来宮廷のみならず戦場でもピョートル大帝に付き添って «活躍» をしていたことが大きかったであろう。17世紀末には銃兵が皇位継承に大きな発言権を持ったが、18世紀にも近衛兵が皇位継承を左右した。その近衛兵の支持を得たことが、エカテリーナ1世のあるいは最大の強みだったと言っていいかもしれない。
女帝としてのエカテリーナ1世の治世における最大の実力者は、かつての «愛人» アレクサンドル・メーンシコフ公であった。
他方、エカテリーナ1世自身は、一般的には政治に関心を持たず、政務はすべてアレクサンドル・メーンシコフ公と、1726年に新たに創設した最高枢密院に委ねていた、とされている。 ただし、これとは逆にまじめに政務をみた、とする説もある(が少数派)。
最高枢密院 Верховный тайный совет は1726年に創設され、1730年には廃止された、国政の最高機関。本来元老院がその任にあたるはずで、最高枢密院の創設により元老院の権限は制限されることになった。
«改革派» が権力を握ったことから、ピョートル時代の改革の成果を温存し、科学アカデミーを正式に発足させるなどした。とはいえ «改革派» としても «保守派» の声を無視することができず、減税や行政の簡素化など、ピョートル時代の引き締めを緩めたりもしている。特に怨嗟の声が高かったのが、軍隊による人頭税の強制徴収であった。1727年、このやり方は廃止され、以後は領主が農民から人頭税の徴収を代行することになった(これは領主の農民支配を強化することにもなった)。
最高枢密院にはアレクサンドル・メーンシコフ公のほか、宰相ガヴリイール・ゴローフキン伯、海軍元帥フョードル・アプラークシン伯、ピョートル・トルストーイ伯、副宰相アンドレイ・オステルマン男爵、ドミートリー・ゴリーツィン公、そして娘婿カール・フリードリヒが選ばれた。これは、アレクサンドル・メーンシコフ公の独裁を怖れる貴族との妥協の産物とも、エカテリーナ1世自身がアレクサンドル・メーンシコフ公への権力集中を嫌った結果だとも言われる。
外交政策は基本的にアンドレイ・オステルマン伯が担当し、平和外交を採る(1726年に皇帝カール6世と条約を結ぶ)。
ドミートリー・ミハイロヴィチ・ゴリーツィン公(1665-1737)はゲディミノヴィチ。ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ公の従兄弟。プレオブラジェンスコエ村以来のピョートル大帝の側近だが、その急激で強権的な西欧化政策には反対。1730年、アンナ・イヴァーノヴナを女帝として迎えるに際して、制限君主制の樹立を画策(ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ公と同じく立憲君主制を考えていたとも言われる)。ロシアにおいては画期的な発想だったが、失敗。
後継者に関して、«保守派» は今度こそピョートル・アレクセーエヴィチ大公を皇帝にしようと考えていた。
他方、エカテリーナ1世自身は娘アンナ・ペトローヴナかエリザヴェータ・ペトローヴナに皇位を譲りたいと考えていたようだ。しかしアンナ・ペトローヴナもエリザヴェータ・ペトローヴナも、エカテリーナ1世がピョートル大帝と結婚する前に生まれた子であり、アンナ・ペトローヴナには外国人の夫がおり、エリザヴェータ・ペトローヴナは未婚だったがそれだけに誰と結婚するかが大問題であって、このため «改革派» にはこれといった候補者がいなかった。
アンドレイ・オステルマンはピョートル・アレクセーエヴィチ大公とツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナの結婚を提案したが(実際このふたりは仲が良かった)、これは甥と叔母の結婚になるため正教会が認めるはずもなかった。
最終的にアレクサンドル・メーンシコフ公が、自分の娘とピョートル・アレクセーエヴィチ大公を結婚させることを条件にピョートル・アレクセーエヴィチ大公の即位に賛同。エカテリーナ1世としては、ピョートル・アレクセーエヴィチ大公を指名する以外になかった(ただしピョートル・アレクセーエヴィチ大公が子なくして死んだ場合にはアンナ・ペトローヴナ、エリザヴェータ・ペトローヴナとその子孫を後継者とすることを遺言した)。
死因は肺炎。ペトロパーヴロフスキー大聖堂に葬られる。
ちなみに、エカテリーナ1世により兄カールとフリードリヒ(フョードル)は伯となり、その子女は従姉妹にあたる女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの宮廷で活躍したが、スカヴロンスキー家自体はカールの孫が1793年に死んで断絶した。