ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ
Дмитрий Александрович
公 князь императорской крови
生:1901.08.02/08.15−ガッチナ
没:1980.07.07(享年78)−ロンドン(イギリス)
父:アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公)
母:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
結婚①:1931−パリ(1947離婚)
& マリーナ・セルゲーエヴナ 1912-69 (セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ伯)
結婚②:1954−ロンドン
& シーラ 1898-1969 (ハリー・キスホルム)
サー・ジョン・チャールズ・ペニストン・ミルバンク未亡人
フランシス・エドワード・セントクレア・アースキン夫人
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
マリーナ・セルゲーエヴナと | |||||||
1 | ナデージュダ | 1933-2002 | 1952 | ブライアン・アレン | 1931- | ||
1977 | ウィリアム・トーマス・ホール・クラーク | 1924- |
ミハイロヴィチ。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の第五子(四男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの甥。
1917年、二月革命はクリミアの父の所領アイ=トドルで迎える。一時は臨時政府により自宅軟禁状態に置かれた。1918年にはボリシェヴィキーに逮捕される危機もあったが、ドイツ軍、白衛軍により救われる。
1918年暮れ、第一次世界大戦が終結。パリで開催される講和会議に出席するため、父が出国した。この当時はまだボリシェヴィキー政権もいずれは崩壊するものと思われており、誰も国外亡命など考えてはおらず、そのままクリミアに残留した。
しかし1919年に入ると急速に情勢は悪化。白衛軍は赤軍に押され、ボリシェヴィキーの勢力は南ロシアに及んできた。このため1919年4月、イギリスの軍艦で、祖母の皇太后マリーヤ・フョードロヴナ、母、兄弟、さらにはニコラーエヴィチ一族とともに亡命した。
ロシアを後にしたのは18歳の時。その後母とともにロンドンに居住。
職はいずれも長続きせず、様々な仕事を転々とした。株の仲買人、ココ・シャネルの店のマネージャー、旅行会社、ウィスキー販売業等々。
第二次世界大戦ではイギリス海軍に入隊し、ダンケルクの撤退にも加わっていた。
1979年、ロマーノフ家協会 Romanov Family Association/Объединение членов рода Романовых が創設されると、その初代会長職に就く。
ロマーノフ家協会は皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの男系子孫の集まりであるが、現実にはヴラディーミル・キリーロヴィチ公の主張に反発するロマーノフ一族の集まりといった感が強い。