アントニーナ・ラファイーロヴナ・ネステローフスカヤ
Антонина Рафаиловна Нестеровская
ロマーノフスカヤ=ストレーリニンスカヤ公妃 княгиня Романовская-Стрельнинская
生:1890.03.14/03.26
没:1950.03.07(享年59)−パリ(フランス)
父:ラファイール・ネステローフスキー
母:?
結婚:1917−ペトログラード
& ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公 1887-1955 (コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公)
子:なし
ロシアの下級貴族。正教徒。
マリインスキー劇場のバレリーナ。母親と小さなアパートに暮らす。
決して美人ではなかった(むしろ平凡だったとも言われる)が、ウィットに富んでいて陽気な性格だった。
1911年、先輩のマティルダ・クシェシニスカ邸においてガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公と出会う。1912年にはその愛人となる。
1913年、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公の要請でバレエ団を退団。ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公がサンクト・ペテルブルグに購入した家に住む。
ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公とアントニーナ・ネステローフスカヤの貴賎結婚は皇帝の認めるところとならなかったが、当時多くのロマーノフがしたように国外で皇帝の許可を得ずに結婚することはガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公はしなかった。しかしふたりは公然と同棲を続け、それは第一次世界大戦が勃発しても変わらなかった(ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は一時前線に赴いたがその後軍事アカデミーに学ぶためペトログラードに戻ってきていた)。
二月革命により皇帝がいなくなって、アントニーナ・ネステローフスカヤとガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は結婚。ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公の母エリザヴェータ・マヴリーキエヴナが相変わらず反対していたので、アントニーナ・ネステローフスカヤの妹と少数の友人が列席するだけの秘密結婚だったが、事後報告をすると怒ったエリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃も最後には折れてふたりを祝福した。
こうしてペトログラードのアントニーナの家で新婚生活が始まったが、平穏は長くは続かなかった。
十月革命後政権を取ったボリシェヴィキーはロマーノフ一族への締め付けを徐々に強めていった。1918年春にロマーノフ一族が国内流刑に処された時には、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公が結核を病んでいたためアントニーナ・ネステローフスカヤのもとにとどまることが許されたが、夏になって病が癒えるとガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公はЧКの監獄に収監される。
当時、ロマーノフ一族の関係者たちは、皇帝一家をはじめとするボリシェヴィキーに捕らえられた一族の釈放を勝ち取ろうと様々に努力していたが、これに成功したのはアントニーナ・ネステローフスカヤだけだった。アントニーナ・ネステローフスカヤの友人にマクシム・ゴーリキーの妻がいたことが大きい。その仲介でペトログラードЧК議長モイセイ・ウリツキーに泣きつき、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公の釈放を勝ち取った。さらにアントニーナ・ネステローフスカヤはガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公ともどもゴーリキーのアパートに転がり込み、その支援でフィンランドへの亡命を認めてもらった。
ふたりがペトログラードを後にしたのは1918年11月。その2ヶ月後には、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公が監獄をともにしたロマーノフ家の大公たちは処刑されている。
亡命したアントニーナ・ネステローフスカヤとガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公はフランスへ。1920年にはパリに落ち着く。ここでユスーポフ公夫妻と親しくつきあった。
1924年までには経済状態は悪化し、ユスーポフ公夫妻にならってアントニーナ・ネステローフスカヤもクテュールの店を出す。その収入がふたりの生活を支えた。しかし大恐慌のあおりで1936年には店を畳み、パリ郊外で細々と暮らした。アントニーナ・ネステローフスカヤは時々バレエを教えるなどして生活費を工面していた。
ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公がキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の皇位継承権を承認した返礼に、アントニーナ・ネステローフスカヤはキリール・ヴラディーミロヴィチ大公によってロマーノフスカヤ=ストレーリニンスカヤ公妃の称号を与えられた。もっとも、ロマーノフ一族のほとんどがこれらの称号を認めていない。