アントン・ウルリヒ
Anton Ulrich, Антон Ульрих
ブラウンシュヴァイクのプリンス Prinz von Braunschweig
大元帥 генералиссимус (1740-41)
生:1714.08.17/08.28−ベーフェルン(ドイツ)
没:1774.05.04/05.15(享年59)−ホルモゴールィ
父:フェールディナント・アルプレヒト2世 1680-1735 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公(1735)
母:アントワネッテ・アマーリエ 1696-1762 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフ)
結婚:1739−サンクト・ペテルブルク
& エリーザベト/アンナ・レオポリドヴナ 1718-46 (メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レーオポルト)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アンナ・レオポリドヴナと | |||||||
1 | イヴァン(皇帝6世) | 1740-64 | ― | ||||
2 | エカテリーナ | 1741-1807 | ― | ||||
3 | エリザヴェータ | 1743-82 | ― | ||||
4 | ピョートル | 1745-98 | ― | ||||
5 | アレクセイ | 1746-87 | ― |
北ドイツの領邦君主フェールディナント・アルプレヒトの第二子(次男)。ルター派。
母アントワネッテ・アマーリエは、ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの妃ソフィヤ・シャルロッタの妹。つまりアントン・ウルリヒは皇帝ピョートル2世・アレクセーエヴィチの従兄弟にあたる。同時にアントワネッテ・アマーリエのもうひとりの姉エリーザベト・クリスティーネ(1691-1750)は、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)の妃。つまりアントン・ウルリヒは、マリーア・テレージア(1717-80)の従兄弟でもある。
またすぐ下の妹エリーザベト・クリスティーネ(1715-97)はプロイセン王フリードリヒ2世大王(1712-86)の妃。その下の妹ユリアーナ・マリーア(1729-96)はデンマーク王フレデリク5世(1723-66)の第2妃。
ブラウンシュヴァイクはドイツのニーダーザクセン州にある都市。11世紀以降ヴェルフェン家の所領となり、13世紀にヴェルフェン家はブラウンシュヴァイク公を名乗るようになる。ブラウンシュヴァイク公家は諸子による分割相続がはなはだしく、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公家、ブラウンシュヴァイク=カーレンベルク公家、ブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲン公家、ブラウンシュヴァイク=ハノーファー公家、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公家などに分裂。政治的にも軍事的にも経済的にも弱小であったが、家系の歴史の古さ故か、結婚相手としては各国王家から引っ張りだこだった。
父は、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公の分家として、ベーフェルンを所領としていた(そのためブラウンシュヴァイク=ベーフェルン公と呼ばれる)。母方の祖父ルートヴィヒ・ルードルフ(1671-1735)が死んで本家が断絶し、父がブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公となったのは、ようやくアントン・ウルリヒが20歳になった年。当然その次男であったアントン・ウルリヒには、これといった将来がなく、他国の軍隊で軍人として出世する以外に陽の目を見る道はなかった。
しかしヴェルフェン家(ブラウンシュヴァイク家)は婚姻関係ではヨーロッパの王族からひっぱりだこで、アントン・ウルリヒが生まれた年には遠い親族(ブラウンシュヴァイク=ハノーファー公)がイギリス王になっている。このようにヨーロッパ中に張り巡らされた姻戚関係がアントン・ウルリヒにも大きなチャンスをもたらすことになった。すなわち伯母エリーザベト・クリスティーネの斡旋で、アンナ・レオポリドヴナの夫候補として、1733年にロシアに招かれたのである。
女帝アンナ・イヴァーノヴナはアントン・ウルリヒが気に入らなかったが(「知性もなく美しさもない」)、ハプスブルク家との関係を壊すことを怖れ、ふたりを婚約させた。もっともそれはお互い様で、アントン・ウルリヒもアンナ・レオポリドヴナも互いが気に入らなかった(結婚が6年後になったのはおそらくそのため)。
以降、アントン・ウルリヒはロシア軍に勤務。軍ではその勇敢さから部下に慕われ、大佐に昇進。重騎兵連隊を指揮した。露土戦争(1735-39)に従軍。
1739年、アンナ・レオポリドヴナと結婚。アントン・ウルリヒはロマーノフ家に婿入りした形だが、正教には改宗しなかった。単なる種馬でしかなかったから、アンナ・イヴァーノヴナもさほどこだわらなかったのかもしれない。
翌1740年、息子イヴァン・アントーノヴィチが生まれると、女帝アンナ・イヴァーノヴナによりイヴァン・アントーノヴィチが後継者に指名される。アンナ・イヴァーノヴィチが死ぬと(10月)、遺言によりエルンスト・ビロンが摂政に任じられた。しかしアントン・ウルリヒはこれに反発し、ブルハルト・ミーニフ伯によるクーデタ(11月)にも積極的にかかわっていたとされる。この結果、妃アンナ・レオポリドヴナが摂政となる(1740-41)。
摂政となったアンナ・レオポリドヴナは自ら権力を握り、アントン・ウルリヒには大元帥の称号を与えるなどしたが、実権はほとんど与えなかった。アントン・ウルリヒは大元帥に任じられたことで満足したのか、おとなしくしていた。
ちょうど1年後の1741年、宮廷革命によりエリザヴェータ・ペトローヴナが女帝に。
権力の座を追われたアンナ・レオポリドヴナとアントン・ウルリヒは、子供たちともどもリガに流される(ただしイヴァン・アントーノヴィチのみは家族から切り離されて隔離されていた)。その後、ディナミュンデ、ラーネンブルグと転々とし、最終的に1744年以降はアルハンゲリスク県のホルモゴールィに流刑となった。
ディナミュンデ Динамюнде(ドイツ語デュナミュンデ Dünamünde の音訳)は現在のダウガヴグリヴァ(ラトヴィア)。
ラーネンブルグ Раненбург は現在のチャプルィギン(リペツク州)。
ホルモゴールィ Холмогоры はアルハンゲリスク南方の都市。
この間妻アンナ・レオポリドヴナを亡くす。
アントン・ウルリヒには「知性もなく美しさもな」かったかもしれないが、それでも父親としての責任感はあったらしい。ろくな環境にない中で、かれは自ら子供たちを養育した。アントン・ウルリヒの意思だったのか、子供たちはロシア人として育てられた。ルター派ではなく正教徒として洗礼を受け、ドイツ語ではなくロシア語を学んだ。
ちなみにアルハンゲリスク県知事の監視下に置かれたものの、生活費は国庫から支給され(大した額ではなかったが)、子供たちも近隣の子供たちと一緒になって遊んでいた。
1762年には即位したエカテリーナ2世により、ドイツへの帰国を赦される。ただし子らには出国が認められなかった。アントン・ウルリヒにはロマーノフ家の血が流れておらず皇位継承権を持たなかったが、子供たちにはロシア皇位継承権があったためである。アントン・ウルリヒは帰国許可を断り、そのまま子らのもとにとどまる(故郷に帰れば兄や弟たちも健在だったのだが)。
晩年、体力も衰え、ほぼ失明状態にあった。
結局流刑地で30年以上を送り、生まれ故郷を見ることもなく死去。
どこに葬られたかは不明。