ロマーノフ家人名録

アナスタシーヤ・ロマーノヴナ・ザハーリイナ

Анастасия Романовна Юрьева-Захарьина

ツァリーツァ царица (1547-)

生:1530?
没:1560.08.07(享年?)−コローメンスコエ

父:ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン -1543?
母:ウリヤーナ или アナスタシーヤ・フョードロヴナ -1579

結婚:1547−モスクワ
  & ツァーリ・イヴァン4世雷帝 1530-84

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
イヴァン雷帝と
1アンナ1549-50
2マリーヤ1551-
3ドミートリイ1552-53
4イヴァン1554-811571エヴドキーヤ-1619ボグダン・ユーリエヴィチ・サブーロフロシア貴族
1575プラスコーヴィヤ-1621ミハイール・ソローヴィイロシア貴族
1581エレーナイヴァン・シェレメーテフロシア貴族
5エヴドキーヤ1556-58
6フョードル (ツァーリ1世)1557-981580イリーナ-1603フョードル・イヴァーノヴィチ・ゴドゥノーフロシア貴族

ロマーン・ユーリエヴィチの次女(?)。ニキータ・ロマーノヴィチの姉、あるいは妹。イヴァン雷帝の最初の妃。最初のツァリーツァ。

 «花嫁コンテスト» でイヴァン雷帝自身により妃に選ばれる。
 1547年、イヴァン雷帝は、ツァーリとしての戴冠式を行った1ヶ月後、場所も同じウスペンスキイ大聖堂にてアナスタシーヤ・ロマーノヴナと結婚。

«花嫁コンテスト» はおそらくビザンティン帝国から輸入された風習で、おそらくヴァシーリー3世イヴァン雷帝の父)からモスクワでも行われるようになったのではないかと思う。だとすれば、ヴァシーリイ3世の母ソフィヤ・パレオローグが最後のビザンティン皇帝の姪であったので、彼女を通じて持ち込まれたのかもしれない。いずれにせよ、«花嫁コンテスト» とは臣下の見目麗しい娘たちを集めて気に入った女性を妃とするというもので、ビザンティン帝国では皇妃テオドラのようにいかがわしい素性の出身者でも一躍最高権力者の配偶者になれた。しかしやがて、王朝的力学がより重要視されてきたこともあり、廃れていく。ロシアでも1684年を最後に行われなくなった。

 イヴァン雷帝は生涯において7人(8人)の妻を迎えたが、一般的にアナスタシーヤ・ロマーノヴナを最も愛していたと言われる。
 ただし、アナスタシーヤ・ロマーノヴナの個性についてはあまり伝わっていない。信仰篤く、柔和な性格だったなどとされているが、おそらくは当時のロシア女性に典型的な «家庭的» 女性だったのだろう。
 しかしその一方で、イヴァン雷帝に、プライベートの面でもまた政策の面でも良い影響を与えていたとも言われている。アナスタシーヤ・ロマーノヴナ死後のイヴァン雷帝の治世があまりに苛烈だったので、よけいその印象が強い。

 1557年の末子フョードル出産以後体調を崩していたようで、死因はよくわからないが、何らかの病気と思われる。この時イヴァン雷帝は激しく嘆き悲しみ、のちに「アナスタシーヤは大貴族に毒殺されたのだ」などと言ったりした。

 ヴォズネセンスキー修道院に葬られた。

ヴォズネセンスキイ修道院 Вознесенский монастырь はクレムリン内にあった女子修道院。アルハンゲリスキイ大聖堂と並ぶ皇族女子の墓所で、ソフィヤ・パレオローグなどが葬られていた。サンクト・ペテルブルグの建設に伴い、ここに埋葬される皇族女子はなくなる。最後の被埋葬者はプラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ(1731)。1929年に取り壊されたため、ここに埋葬されていた遺体はアルハンゲリスキイ大聖堂を建て増してそちらに移された。

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