アナスタシーヤ・ミハイロヴナ
Анастасия Михайловна, Anastasia Michailowna
大公女 великая княжна
メクレンブルク=シュヴェリーン大公妃 Großherzogin von Mecklenburg-Schwerin (1883-97)
生:1860.07.16/07.28−ペテルゴーフ
没:1922.03.11(享年61)−エズ(フランス)
父:ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 1832-1909 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
母:オリガ・フョードロヴナ大公妃 1839-91 (バーデン大公レーオポルト1世)
結婚:1879−サンクト・ペテルブルグ
& フリードリヒ・フランツ3世 1851-97 メクレンブルク=シュヴェリーン大公(1883-97)
愛人:ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ・パリトーフ 1874-1944
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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フリードリヒ・フランツ3世と | |||||||
1 | アレクサンドリーネ | 1879-1952 | 1898 | クリスティアン10世 | 1870-1947 | デンマーク王(1912-47) | 君主 |
2 | フリードリヒ・フランツ(大公4世) | 1882-1945 | 1904 | アレクサンドラ | 1882-1963 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公エルンスト・アウグスト1世 | ドイツ諸侯 |
3 | ツェツィーリエ | 1886-1954 | 1906 | 皇太子ヴィルヘルム | 1882-1951 | ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 | ドイツ諸侯 |
ヴラディーミル・パリトーフと | |||||||
1 | アレクシス・ルイ・ド・ヴァンダン伯 | 1902-76 | 1929 | ポーレット・スー | 1908-75 |
ミハイロヴィチ。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公の第二子(長女)。
皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従姉妹。同じく従姉妹にギリシャ王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女とスウェーデン王妃ヴィクトリア(1862-1930)がいる。
1862年、アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女が2歳の時に、父がカフカーズ副王に任じられ、一家はティフリス(現トビリシ、グルジア)に移住。以後、アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は結婚するまでグルジアで過ごした(もっともサンクト・ペテルブルグ近郊の父の所領でもしばしば時を過ごしている)。
アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は7人兄弟中唯一の娘として、父からも兄弟からもちやほやされた。
弟アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公に言わせると、家庭を顧みない父と厳格な母の下、兄弟にとって愛情を注ぐ対象となったのがアナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女だった、ということらしい。
従兄弟ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の妃マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃の斡旋で、その兄フリードリヒ・フランツと結婚。
フリードリヒ・フランツは病弱で、幼少より喘息を患い、しばしば湿疹にかかった。そんな夫が、アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は気に入らなかったらしいが、両親の意向には逆らえなかった。
ちなみに正教信仰は保持し、ルター派には改宗しなかった(当然子供たちはルター派)。
結婚後、アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女はシュヴェリーンに住むことになるが、彼女はメクレンブルクの宮廷にも慣れなかった。彼女にとっては «厳格で古風» と感じられたという。ロマーノフ家の人間が何を言うか、という気もするが、解放的なティフリスで育ったアナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女には無理もなかったかもしれない。カフカーズ育ちの彼女にとっては、陰鬱なバルト海沿岸の気候も嫌悪感を煽るだけだったろう。
そもそもアナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は、母がドイツ出身で自身ドイツ語も流暢に話したにもかかわらず、ドイツが好きになれなかったようだ。夫とはフランス語で、子供たちとは英語で話したそうだ。
夫の病気を口実に(実際必要性もあったのだが)、しばしば夫婦でメクレンブルクを離れてイタリアや南仏に滞在した。第二子が誕生したのもパレルモ滞在中。
1883年、義父フリードリヒ・フランツ2世が死に、夫が大公となる。しかしアナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女はシュヴェリーンにとどまることを嫌い、国民から厳しく糾弾された。それでもアナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は、毎年冬はカンヌで過ごし続けた。君主の妃が何ヶ月も国を空けて公務を放擲していたのだから批判されても当然だ。国民にとっては、いつまでも馴染もうとしない «外国女» と見えたことだろう。
さらに、金遣いの荒さと豪奢な生活ぶりでも国民の批判を浴びた。カンヌに豪華な別荘(ヴィラ・ヴァンダン)を建て(もっともこれは夫が建ててくれた)、観劇に明け暮れ(プッチーニが好きだった)、モンテ・カルロのカジノに入り浸り(もっともミハイロヴィチ兄弟は全員ギャンブル狂だった)、批判されるだけのことはある。享楽的な性格で、しかもそれを抑制できなかったのだろう。
1897年、フリードリヒ・フランツが死去。公式には事故とされたが、詳細は少々ミステリアスである。このためメクレンブルクの国民はアナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公妃による殺人だと疑ったと言う。
夫の死後、息子のフリードリヒ・フランツ4世が即位し、摂政にはその叔父(フリードリヒ・フランツ3世の弟)ヨハン・アルプレヒトが就任した。アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は一切の公務を放擲し、南仏に居住。社交とギャンブルに明け暮れ、パリで出会ったロシア人(彼女の «秘書» となる)との間に私生児を生む(この子はのちにデンマーク王クリスティアン9世から、アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女の南仏の別荘にちなんでヴァンダン伯とされた)。
また、毎夏サンクト・ペテルブルグに帰省した。
カンヌでは、貴賎結婚のため国外追放となった弟ミハイール・ミハイロヴィチ大公や、1903年以降病気療養していた父、さらにはマティルダ・クシェシニスカなどと交際した。
アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女はメクレンブルクだけではなくドイツ全般からも嫌われていた(彼女はフランスびいきだった)。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世には特に嫌われ、娘がドイツ皇太子と結婚した時も結婚式に呼ばれたほかは近づかないよう申し渡されたという。
第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ国民として英仏露にはいられなかったが、ドイツ人からも嫌われていた(彼女もドイツを嫌っていた)アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女は、行き場を失くして中立国スイスへ。ローザンヌのサヴォイ・ホテルに居住した。
戦後は再びカンヌに戻り、その近郊で死去。ルートヴィヒスルストの夫の傍らに埋葬された。