ロマーノフ家人名録

アレクセイ・アレクセーエヴィチ・ベリョーフスキー

Алексей Алексеевич Белевский

セッジャーノ男爵 baron Seggiano (1875-)
ベリョーフスキー伯 граф Белевский (1884?-)

生:1871.11.14/11.26−ザルツブルク(オーストリア)
没:1932?(享年61?)−トビリシ

父:アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公 1850-1908 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ
母:アレクサンドラ・ヴァシーリエヴナ 1842-99 (ヴァシーリー・アンドレーエヴィチ・ジュコーフスキー)

結婚①:1894−イリインスコエ
  & マリーヤ・ペトローヴナ公女 1872-1954 (ピョートル・トルベツコーイ公)

結婚②:1904
  & ナターリヤ・フォン・シェッピンク

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
マリーヤ・トルベツカーヤ公女と
1エリザヴェータ1896-19751917ピョートル・ペレヴォシチコフ1872-1937
1939アーサー・ルーリー1892-1966
2アレクサンドラ1899-1925ヘンリー・ド・レップ1896-1955
1956ジョージ・フレヴィツキー1904-60
3マリーヤ1901-961922ヴラディーミル・スヴェルベーエフ1890-1951
1959ヴラディーミル・ヤヌシェフスキー1897-1970
4セルゲイ1903-561926ニーナ・ボートキナ1901-66ロシア貴族

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公とアレクサンドラ・ジュコーフスカヤの唯一の子。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。

 両親の貴賎結婚の結果生まれた子であるのに加え、そもそも両親は結婚していなかったとの説もある。いずれにせよ、アレクセイ・アレクセーエヴィチはロマーノフ一族としても、ましてや大公としても認められなかった。ただしアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の子としては認められていたようだ。
 父は、母とアレクセイに貴族の称号を与えようと自身の父(皇帝アレクサンドル2世)に頼んだが断られ、八方手を尽くして1875年にようやくサン・マリーノ共和国からセッジャーノ男爵の称号をアレクサンドラ・ジュコーフスカヤとアレクセイ・ジュコーフスキーに買い与えた。
 ちなみにその1875年に、母はクリスティアン・ハインリヒ・フォン・ヴォールマンと結婚している。

 ベリョーフスキー伯という称号の由来ははっきりしない。一説によると1884年に伯父にあたる皇帝アレクサンドル3世(1845-94)の勅令でアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の子として認知され、ベリョーフスキー伯の称号が与えられたとも言われる。
 ちなみにベリョーフスキーとは、トゥーラ県にある父の所領ベリョーフにちなんだものとされる。

 陸軍軍人となり、叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の副官に任じられた。結婚相手のマリーヤ・トルベツカーヤ公女も、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の妃エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃の女官で、その所領イリインスコエで結婚式を挙げた。

 その後、アレクセイ・ベリョーフスキー伯もマリーヤ・トルベツカーヤ公女も歴史に名は残さないものの、それぞれセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃に仕え続けた。
 ただし1904年にマリーヤ・トルベツカーヤ公女と離婚し、ナターリヤ・フォン・シェッピンクなる女性と再婚している。

 革命が勃発し、ボリシェヴィキーが権力を握っても、アレクセイ・ベリョーフスキー伯はロシアにとどまった。おそらく中央ロシアにおける混乱を避けるためだろう、いつかしらグルジアに移り住んだ。
 しばらくは見逃されていたようだが、スターリンが独裁権力を確立した1930年代初頭に、カフカーズでボリシェヴィキーによって殺されたと伝えられる。1932年にトビリシで銃殺されたとする説が一般的なようだが、だとすると当時のグルジア共産党第一書記ラヴレンティー・ベリヤ(1899-1953)の命令で処刑されたということだろう。

 マリーヤ・トルベツカーヤ公女と子供たちは革命を逃れて亡命している。

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