アレクセイ・アントーノヴィチ
Алексей Антонович
ブラウンシュヴァイクのプリンス Prinz von Braunschweig
生:1746.02.27/03.10−ホルモゴールィ
没:1787.10.12/10.23(享年41)−ホルセンス(デンマーク)
父:アントン・ウルリヒ 1714-74 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世)
母:アンナ・レオポリドヴナ 1718-46 (メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レーオポルト)
結婚:なし
子:なし
アントン・ウルリヒとアンナ・レオポリドヴナの第五子(三男)。皇帝イヴァン6世・アントーノヴィチの弟。正教徒。
母アンナ・レオポリドヴナは女帝アンナ・イヴァーノヴナの姪。
父方の大伯母エリーザベト・クリスティーネ(1691-1750)は神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)の妃。別の大伯母シャルロッテ・クリスティーネはツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの妃。
また父方の叔母エリーザベト・クリスティーネ(1715-97)はプロイセン王フリードリヒ2世大王(1712-86)の妃。別の叔母ユリアーナ・マリーア(1729-96)はデンマーク王フレデリク5世(1723-66)の妃。
一家は1741年以来、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにより国内流刑されており、この措置は1780年まで解けなかった。アレクセイ・アントーノヴィチは流刑中に生まれたわけだが、その直後に母を亡くす。
以後、流刑地ホルモゴールィの恵まれない環境にあって、父から教育を授けられた。とはいえ、ロシア語しか話せなかった。なお、父はルター派だったが、アレクセイ・アントーノヴィチたち姉弟は正教徒として育てられている。
1780年、デンマーク王太后ユリアーナ・マリーアと女帝エカテリーナ2世の合意により、3人の兄姉とともにデンマークへの出国が認められた。
デンマークの王族として遇され、ホルセンス(ユラン半島)に家を与えられた。またエカテリーナ2世からもひとり当たり8,000ルーブリの年金が支払われた。
とはいえ、ロシア語しか話せず、ルター派の中の少数派で、係累とて家族以外にない生活はつらいものだったろう。
ホルセンスに埋葬されている。