ロマーノフ家人名録

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ

Алексей Александрович

大公 великий князь
海軍元帥 генерал-адмирал (1883-)

生:1850.01.02/01.14−サンクト・ペテルブルグ
没:1908.11.01/11.14(享年58)−パリ(フランス)

父:皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
母:皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナ 1824-80 (ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ2世)

結婚?:1870−イタリア
  & アレクサンドラ・ヴァシーリエヴナ 1842-99 (ヴァシーリー・アンドレーエヴィチ・ジュコーフスキー)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
アレクサンドラ・ジュコーフスカヤと (姓はベリョーフスキー)
1アレクセイ1871-19321894マリーヤ1872-1954ピョートル・トルベツコーイ公ゲディミノヴィチ
1904ナターリヤシェッピンク

皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの第五子(四男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの弟。

 アレクサンドル2世の子らの中で早くから海軍軍人となることが定められ、ゆくゆくは叔父コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公を継いで海軍の最高責任者となることが決められていた。

 1869年か70年、アレクサンドラ・ジュコーフスカヤと結婚したとされる。ただし、実際に結婚が行われた証拠はない。一方で行われなかったという証拠もなく、結婚式は挙げられたがのちに政府が結婚を無効にしたのだ、とも言われる。

 1871年、アメリカに親善使節として派遣される。アレクサンドラ・ジュコーフスカヤとの関係を終わらせるためだったとも言われる。
 デンマーク、イギリスを経由して、3ヶ月をかけてニューヨークへ。シェリダン将軍、カスター将軍、バッファロー・ビルなどとバッファロー狩りをするなど、訪問は大成功だったらしい。3ヶ月の滞在後、1872年にフロリダを出港した。
 その後ハバナ、リオを経て、8ヶ月をかけて太平洋を横断し、バタヴィア、香港、上海等を経由して日本へ。1ヶ月滞在した後、1872年末にヴラディヴォストークに。シベリアを経由してサンクト・ペテルブルグに帰還した。

 露土戦争(1877-78)ではドナウ艦隊司令官。

 1881年、父の死で、長兄アレクサンドル3世が即位すると、人事が一新。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公ニコライ・ニコラーエヴィチ大公のふたりの叔父がそれぞれ海軍と陸軍のトップの地位から追われ、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公が予定通り海軍の総責任者となった。

 ロシア海軍はコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公が責任者であった四半世紀を経ても旧態依然たる体質を変えておらず、一応の近代化は達成されたと言えるが(帆船が蒸気船に)、列強に伍する海軍の建設はいまだに課題として残されていた。
 しかしコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公ほどの才も意思の力も持たないアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公ではそれは不可能であったと言えるだろう。予算は5倍に増え、新造艦も配備され、軍港は整備され、その限りではアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の功績は評価され得る。しかし、そもそも陸軍国ロシアで海軍はあくまでも継子であった。新造艦はあくまで英仏等西欧の軍艦のコピーでしかなく、そのため進水した時点ですでに時代遅れであった。しかも明確な戦略なしに建造されたため軍艦の構成もいびつであった。

 日本海会戦を筆頭とする日露戦争での海軍の失態の責任を追求されて、1905年、海軍の職務から解任された。

 生涯のほとんどをパリで過ごした。美食と女好きで知られ、特にジナイーダ・スコーベレヴァ(ロイヒテンベルク公ウジェーヌ・ド・ボーアルネの妻)とのスキャンダルは有名。

 死因は肺炎。ペトロパーヴロフスキー大聖堂脇に完成したばかりの «大公霊廟» に埋葬される。
 かれの死は、ロシアではほとんど無視されたとも言われるが、一方で皇帝ニコライ2世は愛する叔父の死に衝撃を受けた、とも言われる。

«大公霊廟 великокняжеская усыпальница» はペトロパーヴロフスキー大聖堂の隣に建てられた霊廟。ペトロパーヴロフスキー大聖堂内が手狭になってきたため(最終的には46人が葬られた)、以後ここは皇帝一家専用とされ、それ以外の大公・大公女・大公妃を埋葬するために1896年に «大公霊廟» が計画され、1908年に完成。8人の遺骸がペトロパーヴロフスキー大聖堂から移され、新たに5人がここに埋葬された(計13人)。

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