アレクセイ・ミハイロヴィチ
Алексей Михайлович "Тишайший"
ツァレーヴィチ царевич
全ルーシのツァーリ царь всея Руси (1645-)
生:1629.03.09/03.19−モスクワ
没:1676.01.29/02.08(享年46)−モスクワ
父:ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチ 1596-1645
母:ツァリーツァ・エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナ 1608-45 (ルキヤーン・ステパーノヴィチ・ストレーシュネフ)
婚約:エフフィーミヤ・フョードロヴナ 1630?-57 (フョードル・ロディオーノヴィチ・フセヴォロシュスキー)
結婚①:1648−モスクワ
& マリーヤ・イリイーニチナ 1625-69 (イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキー)
結婚②:1671−モスクワ
& ナターリヤ・キリーロヴナ 1651-94 (キリール・ポリエフクトヴィチ・ナルィシュキン)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
マリーヤ・イリイーニチナと | |||||||
1 | ドミートリー | 1648-49 | − | ||||
2 | エヴドキーヤ | 1650-1712 | − | ||||
3 | マルファ | 1652-1707 | − | ||||
4 | アレクセイ | 1654-70 | − | ||||
5 | アンナ | 1655-59 | − | ||||
6 | ソフィヤ | 1657-1704 | − | ||||
7 | エカテリーナ | 1658-1718 | − | ||||
8 | マリーヤ | 1660-1723 | − | ||||
9 | フョードル(ツァーリ3世) | 1661-82 | 1680 | アガーフィヤ | -1681 | セミョーン・フョードロヴィチ・グルシェツキー | ポーランド出身貴族 |
1682 | マルファ | 1664-1715 | マトヴェイ・ヴァシーリエヴィチ・アプラークシン | ムーロム貴族 | |||
10 | フェオドーシヤ | 1662-1713 | − | ||||
11 | シメオン | 1665-69 | − | ||||
12 | イヴァン(ツァーリ5世) | 1666-96 | 1684 | プラスコーヴィヤ | 1664-1723 | フョードル・ペトローヴィチ・サルトィコーフ | モスクワのボヤーリン |
13 | エヴドキーヤ | 1669 | − | ||||
ナターリヤ・キリーロヴナと | |||||||
1 | ピョートル(皇帝1世) | 1672-1725 | 1689 | エヴドキーヤ | 1669-1731 | イラリオーン・アヴラアーモヴィチ・ロプヒーン | モスクワのボヤーリン |
1712 | エカテリーナ | 1684-1727 | サムエル・スカヴロンスキ | リヴォニア農民 | |||
2 | ナターリヤ | 1673-1716 | − | ||||
3 | フェオドーラ | 1674-77 | − |
ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチの第三子(長男)。ロマーノフ家第2代のツァーリ。
養育係はボヤーリンのボリース・モローゾフ。アレクセイ・ミハイロヴィチはそれなりに教養もあり、勅命にツァーリが自ら署名するようになったのはアレクセイからである。あるいはそれも、西欧的教養を(多少は)身につけたモローゾフの薫陶によるものだろうか。
もっとも、受けた教育は読み書き以外には宗教教育がメイン。この頃のロシア貴族の伝統的な教育だった。とはいえ、それにコスモグラフィーが加わったり、«ドイツ風» の甲冑やカードが遊び道具として取り入れられたりしている点、モローゾフの影響だろう。
14歳で国民に «お披露目» された(後継者としての儀式)。
父の死で、父と同じ16歳で即位した。しかもそのわずか1ヶ月後には、母も亡くしている。2歳年長の姉とはいえ読み書き程度の教育しか受けておらず、宮廷の内だけで過ごしていたツァレーヴナ・イリーナ・ミハイロヴナが当てになるはずもなく、実権はボリース・モローゾフが掌握した。
ボリース・イヴァーノヴィチ・モローゾフ(1590-1661)は古い大貴族、ボヤーリン。一時的な中断もあったが、結局1645年から16年間にわたってロシアの最高実力者であった。
1647年、花嫁コンテストが開催され、アレクセイ・ミハイロヴィチは小貴族フョードル(ラファ)・フセヴォロジュスキーの娘エフフィーミヤ(エフフロシーニヤ?)に目を留めるが、エフフィーミヤ・フセヴォロジュスカヤと家族は宮廷内の陰謀でシベリアに追放される。その首謀者はボリース・モローゾフだったとも言われ、1648年、モローゾフはアレクセイ・ミハイロヴィチをマリーヤ・ミロスラーフスカヤと結婚させると同時に、自身その姉と結婚した。
しかしこの年、政府による塩の専売に不満を爆発させた «塩一揆 Соляной бунт» が勃発。モローゾフは失脚した。
モスクワにおける «塩一揆» は単発的なものではなく、ヴォローネジュ、クールスク、コズローフなど各地の都市でも暴動が勃発。特に1650年のノーヴゴロドとプスコーフの暴動は大きなものだった。これらはその原因も様相もそれぞれだが、大雑把に言ってボリース・モローゾフによる緊縮財政政策がひとつの引き金となっている(動乱の時代や対ポーランド戦争の傷跡がまだ癒えていなかった)。しかし暴動参加者がツァーリに対して暴動を起こしたわけではない点、特記すべきだろう。かれらはむしろツァーリが善政をもたらしてくれることを願っていた。
アレクセイ・ミハイロヴィチが政治家としてどんなものだったのかはよくわからないが、少なくとも政治に対する意欲は父親と違って持っていたらしい。父親のように側近に任せきりにするのではなく、自らも積極的に政治に参画した。とはいえ重臣の影響を受けやすかったと思われる点は、父親似であろう。ただその重臣が、親族ばかりだった父と違って実際に有能な政治家だった点はやはり君主として評価されていい。
«塩一揆» のほとぼりが冷めた頃、ボリース・モローゾフを呼び戻すが、以後はアレクセイ・ミハイロヴィチも自ら政務に励み、ボリース・モローゾフや義父イリヤー・ミロスラーフスキーなどが側近としてこれを補佐した。
アレクセイ・ミハイロヴィチの治世最初期の最大の出来事は、1648年に全国会議が召集され、1649年に «会議法典 Соборное уложение» が採択されたことだろう。これにより、キエフ・ルーシ以来の世襲領主貴族と正教会(いずれも大土地所有者)の犠牲の下に、代々モスクワ大公に仕えることでのし上がってきた新興の宮廷勤務貴族 дворянин や都市民の権利が拡張された。同時にこの法典で、農民は一切の移動の自由を剥奪され、農奴制は大きく進展した。この法典の骨子は、帝政崩壊まで残った。
ロシアの農民は元来ヨーロッパのほかの地域の農民と大差ない地位にあった。地主が所有していたのは土地であり、農民その人ではない。しかし、農村経営とそこから上がる税収を確保するため、農民の自由は徐々に奪われていく。15世紀末には早くも農民の移動は特定の時期以外には認められなくなり、ボリース・ゴドゥノーフによって全面的に移動の自由が剥奪された。とはいえ無断でほかの土地に移る農民(逃亡農民)は後を絶たなかったが、会議法典で逃亡農民を追跡する地主の権利が無期限に認められ、実質的に残っていた農民の移動の自由は完全に失われた。
その後も農民の地位は下落を続け、ピョートル大帝時代以降地主による人格的支配が拡大し(ピョートル大帝は兵士と税収の確保のため農民に対する締め付けを強化した)、エリザヴェータ・ペトローヴナの時代にはもはや独立の階級として認識されなくなっていた。地主の所有物扱いされたわけで、こうして農民は人ではなくなった。1767年、エカテリーナ2世により領主を訴える権利を剥奪されて、農奴制は完成したと言われる。
ボリース・モローゾフは西欧(具体的にはポーランド)の文化に強い関心を寄せ、おそらくその影響かと思われるが、アレクセイ・ミハイロヴィチも西欧文化にかぶれた。子供たちの養育のためにウクライナ(ポーランド)から修道士シメオン・ポーロツキーを招聘したのもその一環だろう。
これは同時に、旧いロシアの伝統を改革しようとする意欲にも通じる。1651年に正教会の改革を主張するニーコンをモスクワ総主教に任じ、以後 «宗教改革» を推進させたのもその表れだろう。
ニーコン(1605-81)は農民出。3人の子を一度に失くして修道士に。即位直後のアレクセイ・ミハイロヴィチに気に入られ、1648年にはノーヴゴロド府主教に任命される。総主教となって宗教改革を推進したが、やがてアレクセイ・ミハイロヴィチと対立。1658年、総主教の権限を剥奪され、モスクワ郊外の修道院へ。1666年に正式に解任され、遠隔地に事実上流刑となった。1681年、モスクワ郊外への帰還が認められたが、その途上で死去。
ちなみにロシアでは、貴族が聖職者となるのは稀であった。もちろん下級貴族、没落貴族の中には聖職者となる者もいたし、時には大貴族が世俗を棄てることもあった。フィラレートのように、権力闘争に敗れて修道院に入れられることもあった。しかしそれらはやはり少数で、このため西欧や日本のように王侯貴族出身者が高位聖職者を独占するという事態はそもそも発生し得なかった。ただしその一方で、フランスのリシュリューやマザランに代表されるように、聖職者でありながら国家権力を握るという者も現れなかった(フィラレートはツァーリの父という特殊なケースである)。ロシアにあって聖職者・正教会は、世俗とはその意味でまったく切り離されていたのである。
ただしニーコンによる宗教改革には、それ以上の大きな意味合いがあった。
広大なロシアでは、各地で祈祷書の内容に異同が著しく、また典礼にも独自の風習が混じりこんでいて、言わば統制のとれていない状態にあった。«動乱の時代» を経て国家の再統一を一応成し遂げたロシアにあって、俗界のみならず聖界においても統一を果たすことは重要であった(これは祖父フィラレートが放置していた課題でもあった)。
のみならず、ビザンティン帝国がオスマン帝国に滅ぼされて以後ロシアの正教会には、唯一独立を維持している正教国家の教会として、全東方正教会の中で指導的役割を果たすべきだとの考えが芽生えていた。これはおそらく、1589年にボリース・ゴドゥノーフによってモスクワ府主教座が総主教座に格上げされて以来、特に強まったものと思われる。だからこそ、他の正教会を範に典礼を修正しなければならないという主張が強まってきたのである。
東方正教会(オルトドクス教会)におけるヒエラルキーは、図式的に言うと、総主教、府主教、大主教、主教となる。当時総主教はコンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、イェルサレム、モスクワの5人がいた。ローマ教皇を唯一の首長とするカトリック教会と異なり、東方正教会にはその意味でのトップは存在しない。
1654年、アンティオキア総主教やセルビア府主教も招いてモスクワで開催された教会会議で、ニーコンの改革案は正当なものとして承認され、反対派は破門された。この会議にアンティオキア総主教やセルビア府主教が招かれている事実が、東方正教会全体の中にロシア正教会を位置づけようというニーコンの宗教改革が持つ意図を物語っている。
しかし、「ロシア正教会が全東方正教会の中で指導的役割を果たすべきだ」との考えは、改革派と同じく反対派も持っていた。ただしかれらは、ロシア正教会が他の正教会に合わせるのではなく、他の正教会がロシア正教会に倣うべきだと主張した。なぜなら、まさにロシア以外の正教国家は独立を失ってしまったからで、それはつまりかれらの正教が力を失ったからにほかならない。
反対派のような «民族主義的»、あるいは «排外主義的» 態度は、ポーランドやスウェーデンに侵され占領された «動乱の時代» 以来ロシアでは強まっていた。そして«動乱の時代» 以前への回帰を主張する «復古主義» がむしろ時代の主潮であった。ニーコンの宗教改革に対する反対派、いわゆる «分離派» が大きな勢力となり、広範な支持を得たのは、そのような時代背景が大きな要因となっている。
ニーコン自身は、やがて総主教のツァーリに対する優位を主張してアレクセイ・ミハイロヴィチと対立するようになり、1650年代末には失脚。最終的には1666年、アンティオキアとアレクサンドリアの両総主教を迎えてモスクワで開催された教会会議で正式に総主教から解任された。しかし他方でこの会議は宗教改革そのものは改めて承認し、反対派を異端とした。
1668年、ソロフキー修道院(世界遺産)で改革に反発する叛乱が勃発。1676年になってようやく鎮圧されたが、反対派の勢力は侮りがたく、ある統計によれば全人口の10%を占めていたとも言われる。かれらは古くから «分離派 раскольники» と呼ばれていたが、最近は «古儀礼派 старообрядцы» などと呼ばれるのが一般的である(少なくとも学術的な世界では)。
世俗的な改革がまず目標としたのは、国家の富強、そしてそのための王朝の安定と中央集権化、君主権の強化であった。
ロマーノフ王朝もまだたかだか2代40年。おとなりのポーランドのように、貴族が君主を選ぶ選挙王制になる可能性もないわけではなかったし、事実父ミハイール・フョードロヴィチは全国会議で選ばれたツァーリだった。
そもそもロシアでは80年前のイヴァン雷帝の死以来、強力なツァーリ権力が失われており、大貴族の力がかつてないほど大きくなっていた。会議法典でかれらを犠牲にして新興貴族や都市民の権利を拡充したのも、ツァーリ権力の復権のためでもあった。
また全国会議も、1653年に召集したのを最後に以後開催していない。«議会» の芽が摘まれてしまった。
1660年代に入ると、貴族会議もツァーリの直属機関としての機能を、それまでは下部の行政機関であったプリカーズに取って代わられる。もっとも、この点異論もあるが、いずれにせよアレクセイ・ミハイロヴィチが大量のボヤーリンを、特に下級貴族から登用した結果、貴族会議が形骸化したのは確かである。
1666年には、上述のように、ツァーリに対する総主教の優位を主張したニーコンを解任した。
こうしてアレクセイ・ミハイロヴィチの治世に、いったんは落ちるところまで落ちていた君主権は格段に強化され、専制君主制の基礎が築かれた。
これらの改革が、どの程度アレクセイ・ミハイロヴィチのイニシアティヴによるものか、どの程度側近や臣下によるものかはよくわからない。しかし重要なのは、こうして確立された絶対専制君主ツァーリこそが、ロシアで望まれた君主像だった、ということだ。会議法典を制定したのも、全国会議を開催しなくなったのも、貴族会議から実権を取り上げたのも、すべて「大貴族の横暴から中小貴族や民衆を護る」というツァーリに期待される役割を果たしたものであったと言うことができる。全国会議の中核を担った中小貴族や都市民こそが、そのようなツァーリの絶対専制を熱望していたのである。
この時期にはまた、多年の荒廃から立ち直った経済が徐々に活況を呈してきていた。
1653年に国内関税が整理されたこともあって、穀物を中心として国内市場が発展。またその活況が波及して、アルハンゲリスクを通じた対外貿易も拡大している。
さらに、すでに父の治世である1637年にはオランダ人によりトゥーラに製鉄工場が開かれていたが、アレクセイ・ミハイロヴィチの時代になると手工業が各地で発展し、それに伴い都市化が進展した。
このような経済全般における復興、進展は、アレクセイ・ミハイロヴィチの治世中盤から後半にかけてに行われた一連の戦争を支える基盤となり、さらにはピョートル大帝の時代に本格化する経済発展の基礎ともなった。
好調な経済を背景に、軍制改革も行われる。徴兵制度が導入され、それを基盤に «新制連隊»(西欧式軍)が復活された。
1648年、ヘトマンのボグダン・フメリニーツキーに率いられたザポロージエ・コサックの叛乱が勃発。ポーランドを最大の敵とするフメリニーツキーは、アレクセイ・ミハイロヴィチに支援を要請。
これに対してロシアは、国内情勢の沈静化を待って、1653年の全国会議(最後の)で、ウクライナの併合を決議。1654年、ポーランドに宣戦を布告する。
ザポロージエ・コサックはドンやヤイクのコサックと同様の起源を持つが、その領域はポーランド領であった。ポーランド貴族やポーランド化されたルーシ貴族の再植民を逃れてドニェプル下流域に発生したザポロージエ・コサックは、クリム・ハーン国の襲撃に対処するために武装化し、組織化していく。こうしてドニェプル下流域のザポロージエ・シーチ(野営地)を拠点に事実上の自治国家が形成されたが、これはポーランド政府や貴族たちにとっては厄介な存在であると同時に、クリム・ハーン国の襲撃を防ぐ重宝な存在でもあった。ポーランド政府はこれを支配体制に組み込もうと、コサックの登録制度を開始。この結果、登録コサック(都市に住み家庭や土地を持つ «上層部» が多かった)と非登録コサックとにコサックが階層分化。のちに国家体制に組み込まれた登録コサックはポーランド化・カトリック化・貴族化・地主化していくことになる。
フメリニーツキーの叛乱はこの両者をうまく糾合したところに成功の要因があったと言える。この点は、長老層を無視して下層コサックだけで立ちあがったのちのステンカ・ラージンの乱とは対照的である。その意味では、ステンカ・ラージンの乱が «階級闘争» 的性格を持っていたとするならば、フメリニツキーの乱は階級を越えた «民族闘争» 的性格を持っていたと言うことができるかもしれない。
戦争は当初順調に行った。スモレンスクを占領したロシア軍は、その勢いでベラルーシを蹂躙。またザポロージエ・コサックとペレヤスラーヴリ条約を結んだ(ペレヤスラーヴリ条約の実体については不明確な部分も多いが、おおよそこれによりザポロージエ・コサックもドン・コサックと同様ツァーリの宗主権を認めてロシアの «属国» になったと言っていいだろう)。
1655年、ポーランドの弱体化を見たスウェーデンが、突然ポーランドに侵攻。アッと言う間にポーランドを蹂躙したスウェーデンの勢いに怖れをなしたアレクセイ・ミハイロヴィチは、いまや弱体化したポーランドよりもスウェーデンの方がロシアにとって大きな脅威であると認識を転換。1656年にポーランドと休戦し、スウェーデンとの戦争を始めた(これには三十年戦争でスウェーデンに手酷い目に遭っていた神聖ローマ皇帝フェールディナント3世の唆しも大きい)。
しかしアレクセイ・ミハイロヴィチの方針転換は、ザポロージエ・コサックにとっては «寝返り» 以外のなにものでもなかった。1658年、今度はザポロージエ・コサックがポーランドと講和。いまやスウェーデン軍はロシアとリヴォニアを巡って一進一退を繰り広げており、ポーランドにとっての主敵はやはりロシアだと判断したのだろう。ロシアに占領されたままになっている広大な領土を奪還するため、ポーランドはロシアに侵攻した。
その後めまぐるしく同盟関係、敵対関係が入れ替わり、結局ロシアはスウェーデン、ポーランド、ザポロージエ・コサックの三者を相手に戦争を継続する羽目に陥った。
アレクセイ・ミハイロヴィチにとってはクリム・ハーンやノガイ、さらにはオスマン帝国がポーランドやザポロージエ・コサックと結んで参戦してくることが最大の懸念材料で、これを牽制するため、1657年に、ツァーリに臣従することを条件に、カルムィク人にヴォルガ・ステップを譲渡した(これが現在のカルムィキヤ)。
1661年、アレクセイ・ミハイロヴィチはスウェーデンと講和。領土は変更されず、現状が維持された。
ポーランドとの講和交渉は長引いたが、1667年、アンドルーソヴォ条約を締結。ベラルーシやリヴォニアは放棄したものの、スモレンスク、キエフと左岸(東)ウクライナの領有が認められた。
ポーランドはすでに右岸(西)ウクライナにおいてもザポロージエ・コサックに対する支配権をほぼ失っており、1672年にはオスマン帝国に右岸ウクライナを割譲している。このため、以後ウクライナの覇権をめぐる争いは、ロシアとポーランドとではなくロシアとオスマン帝国との間で争われることになる。
ポーランドの領土には、依然としてポーロツクやヴィテブスクなど現ベラルーシと一部ウクライナが «未回復の土地» として残されていたが、これ以後ポーランドはもはやロシアの脅威となることはなく、結局この時合意された国境が1772年の第一次ポーランド分割まで維持された。
ザポロージエ・コサック上層部の親ポーランド政策は下層コサックには不評で、特に下層コサックの多かったドニェプル河左岸(東部)はヘトマンに対して叛乱。こうして右岸(西部)コサックはポーランドと、左岸(東部)コサックはロシアと結んでザポロージエ・コサックは分裂した。とはいえ、右岸でも左岸でも上層部に対する叛乱が発生している(それぞれ上層部の親ポーランド政策、あるいは親ロシア政策に反発して)。
しかし左岸ではロシアが上層部とのつながりを確保していたのに対して、右岸ではポーランドを見限ったヘトマンがオスマン帝国に接近。その結果として1672年にポーランドは右岸ウクライナをオスマン帝国に割譲することになった。とはいえ右岸のコサックもポーランドとのつながりを完全に絶ったわけではなく、以後もポーランドとオスマン帝国双方に対する右岸コサックの政策は迷走を続けた。
経済が好調であったとはいえ、戦争は食糧価格高騰や貨幣改鋳などにより民衆の生活を圧迫していた。1662年には、モスクワで «銅貨一揆 Медный бунт» が勃発。1662年から64年にかけて、バシュキール人が叛乱を起こしている。
戦争の前後から、アレクセイ・ミハイロヴィチの政策には変化が見られはじめた。
これには何よりも、政権を担う顔ぶれの変化が大きい。ボリース・モローゾフは1661年、イリヤー・ミロスラーフスキーは1668年に死に、総主教ニーコンも1650年代末には失脚している。こうしてアレクセイ・ミハイロヴィチを即位以来支えてきた側近たちが相次いで退場したのに代わって、新たに政権の中枢に就いたのがアファナーシー・オルディン=ナシチョーキンである。
アファナーシー・ラヴレンティエヴィチ・オルディン=ナシチョーキン(1605?-80)は下級貴族の出。«ロシア最初の近代政治家» とも呼ばれる。1640年代から外交関係で頭角を現し、リヴォニア総督(1656-58)を経て中央政界へ。1671年、アレクセイ・ミハイロヴィチと対立して失脚。
すでに «動乱の時代» を経て非貴族出身者が大きな力を持つようになっていたが(ニージュニー・ノーヴゴロドの商人クジマー・ミーニンもミハイール・フョードロヴィチの治世初期に実質的に政権を運営していた)、その後国家秩序が回復され、行政機構も整備されてくると、専門能力を持つ有能な官僚が役割を拡大していく。アファナーシー・オルディン=ナシチョーキンもまた外交面で頭角を現した下級貴族出身の官僚であった。
内政面におけるかれの基本方針は、国内経済を発展させることにあった。まず総督の権限を弱め、都市自治を強化した(総督はツァーリにより各地に派遣され、軍事と行政を握っていた)。また新たな工場の建設なども後援し、国内産業の育成に力を注ぐ。そしてその発展途上にある国内産業を護るため、保護貿易主義を採った。
アファナーシー・オルディン=ナシチョーキンはまた外交面では、対西欧貿易を活発化させるためにバルト海への出口を確保することを最優先とし、そのためにはバルト海をおのれの «湖» とするスウェーデンを主敵とすべきだと考えていた。1656年にポーランドと休戦してスウェーデンと開戦したのは、かれの主張が通った結果でもあった。アンドルーソヴォ条約でポーランドと休戦した時も、オルディン=ナシチョーキンが中心となっていた。
1667年、ステンカ・ラージンに率いられたドン・コサックの «叛乱» が勃発。これにはやがてヤイク・コサック(ウラル南方)やテレク・コサック(北東カフカーズ)も加わるが、チェルカースク(現スタロチェルカースカヤ)にあるドン・コサック指導部は不参加だった。
もともとコサックは種々雑多な人々の集まりであったが、その共通性はその社会的背景にある。つまり、かれらのほとんどが政府や領主の圧制から逃亡してきた都市民や農民であり、その意味においてコサックというのはそもそもが下層階級の集団であった。まして1650年代、60年代の戦乱を逃れて、ロシアからのみならずウクライナからも多量の «難民» がドン・コサックに流れ込んだ結果、収容能力の限界を超え、不平不満が渦巻いていた。ラージンの乱は、その爆発、という側面が強かったと言える。しかし同じコサックでも上層部はある意味 «貴族化» しつつあり、一般コサックの気分を共有してはいなかった。ラージンの乱にドン・コサック長老層が不参加だったのはここにひとつの要因がある。
なお、ラージンの «乱» と言っても、もともとドン・コサックにとっては遠征による略奪は日常的な活動であった。しかも、1667年から1669年にかけてラージンの一党は暴れまわったが、荒らしたのは主にカスピ海南岸やペルシャであって、特にロシアの権力に抗して叛乱した、ということではない(もちろんロシア軍と戦闘したりもしているし、ロシア政府はこの動きを危険視していた)。
相次ぐ勝利と膨大な戦利品で膨れ上がったラージンの一党は、カガーリニクに本営を置く。この結果ドン・コサックは、事実上チェルカースクの長老派とカガーリニクのラージン一党とに分裂した。
そして1670年、ついにラージン一党はツァーリ政府と敵対する。アーストラハン、ツァリーツィン(旧スターリングラード、現ヴォルゴグラード)、サラートフ、サマーラ(クーイブィシェフ)と、ヴォルガ沿岸の都市を荒らしまわり占領したかれらは、一般農民たちを糾合して、事態は急速に «農民戦争» の性格を帯びるようになっていった(ただしこの時参加した農民は下層農民であり、安定した生活を営む農民、特に富農は逆にラージン軍に敵対した、とされる)。しかし同時にラージン一党には、チェレミース人、チュヴァーシュ人、モルドヴァー人、タタール人など、やはり主にヴォルガ沿岸に住む少数民族も多数参加し、«少数民族の叛乱» 的様相も呈してきたと言っていい。上述のバシュキール人の叛乱(1662-64)も、この文脈で捉えることができるだろう。
この時、興味深いのは、ラージンが、死んだばかりのツァレーヴィチと幽閉中の総主教ニーコンとが自分の軍の中にいる、と主張したことである(なお、この «死んだばかりのツァレーヴィチ» とは、後でも触れるアレクセイ・アレクセーエヴィチのこと)。本来ドン・コサックは、必ずしもツァーリに従属していたわけではない。にもかかわらずラージンがこのように主張し、しかもその主張が大きな影響を人々に与えたという事実は、«自由の民» を自認するコサックと言えども、もともとロシアからの逃亡者から成るわけで、ツァーリ信仰を根強く残していたことを示しているように思える。
しかしラージン軍はシンビルスク(ウリヤーノフスク)でロシア軍に敗北を喫する。所詮は勢いだけで膨れ上がった寄せ集めの烏合の衆の悲しさ、ラージン軍は急速に瓦解し、ラージン自身はドンに逃げ帰った。
1671年、ドン・コサックの長老派はラージンを捕らえ、モスクワに引き渡す。ラージンを処刑したアレクセイ・ミハイロヴィチは全ドン・コサックにツァーリに対する忠誠を誓わせ、ドン・コサックに対する実効支配をさらに進めた。
1670年、後継者であったツァレーヴィチ・アレクセイ・アレクセーエヴィチが死去。残ったフョードル・アレクセーエヴィチもイヴァン・アレクセーエヴィチも虚弱であったと伝えられる。おそらく王朝の危機を感じたのであろう(アレクセイ・ミハイロヴィチには兄弟も甥・姪もいなかった)。アレクセイ・ミハイロヴィチは翌1671年、«花嫁コンテスト» を実施。しかしこれは出来レースで、以前から目をつけていたナターリヤ・ナルィシュキナを花嫁に選んだ。
ナターリヤ・ナルィシュキナとの結婚は、結果としてテーレム(後宮)を分裂させることになった。すなわち、先妻マリーヤ・ミロスラーフスカヤの生んだ子らと、ナターリヤ・ナルィシュキナとその子らである。前者 «ミロスラーフスキー一族» と後者 «ナルィシュキン一族» との対立は、最終的にナルィシュキン一族に属するピョートル大帝がミロスラーフスキー一族を粉砕するまで20年近くにわたってテーレムのみならず政界をもふたつの勢力に分けて続いた(あるいは70年後のイヴァン・アントーノヴィチの廃位まで、と考えることもできる)。
アレクセイ・ミハイロヴィチとナターリヤ・ナルィシュキナとの結婚を契機に、ナターリヤ・ナルィシュキナの庇護者であったアルタモーン・マトヴェーエフが台頭。アファナーシー・オルディン=ナシチョーキンに代わって宮廷最大の実力者となった。
アルタモーン・マトヴェーエフはウクライナの併合を第一の目標とし、そのためにオルディン=ナシチョーキンとは逆にポーランドを主敵とすべきだと考えていた。かれは東西に分裂したザポロージエ・コサックの複雑な情勢を利して、ロシアの影響力強化を図った。
アルタモーン・セルゲーエヴィチ・マトヴェーエフ(1625-82)は下級聖職者の子でありながら、ボヤーリンに上り詰めた出世頭。軍人、外交官として台頭。1671年にポソーリスキー・プリカーズ(外務省)の長官に任命され、実権を握る。1676年のアレクセイ・ミハイロヴィチ死後、即位したフョードル3世の下で実権を握ったミロスラーフスキー一族により失脚。フョードル3世が死ぬとピョートル1世がツァーリに擁立され、アルタモーン・マトヴェーエフも復権するが、その直後に勃発した銃兵の叛乱で殺された。
ボリース・モローゾフに育てられたことでもともと西欧(ポーランド)かぶれしたアレクセイ・ミハイロヴィチだったが、対ポーランド戦争中には自らヴィリノ(ヴィリニュス)やグロドノにも赴き、その目でポーランド文化に触れてもいる。
特にナターリヤ・ナルィシュキナと結婚したことで台頭してきたアルタモーン・マトヴェーエフが、当時のロシアとしては稀な西欧的教養を身につけた人物であり(妻はスコットランド系だった)、その影響もあって、クレムリンにも徐々に西欧文化、西欧風の風習や文物が導入されていった。すなわち、宮廷劇場(1672年)がつくられ、多数の外国書物が翻訳され、多くの外国人技術者、医師、芸術家などが招かれる。
のちのピョートル大帝の改革も、アレクセイ・ミハイロヴィチの蒔いた種があればこそ芽吹いたのだと言ってもいいだろう。実際、ピョートル大帝の治世を支えたフランツ・レフォールトもパトリーク・ゴールドンも、そしてヤーコフ・ブリュースの父も、いずれもこの時代にロシアにやって来ている。イヴァン雷帝時代から存在した «ドイツ人居留地» が本格的に整備されたのもこの時代であった。
アレクセイ・ミハイロヴィチがかかわったわけではないが、教会音楽にポリフォニーが導入されたのも、イコンにバロックの様式が取り入れられるようになったのもこの時期である。
ドイツ人居留地 Немецкая слобода はクレムリンのすぐ東隣、現在の行政区画でいう中央行政管区バスマーンヌィー地区にあった。ここでいう «ドイツ人 Немецкая» とは現代の «ドイツ人» という意味ではなく本来の «唖の»、つまりは «ロシア語を話せない人間» という意味で、実際の «ドイツ人居留地» の住人はドイツ人だけでなくスウェーデン人、ポーランド人からオランダ人、フランス人など多種多様だった。
もともとは16世紀半ばにリヴォニア戦争(1558-83)の戦争捕虜をここに住まわせたことに由来する。風習も生活形態も家屋の建築様式もすべてにおいて異なる «ドイツ人» たちは、戦争捕虜であると否とにかかわらずここに集住するようになり、ドイツ人居留地が成立した。
ちなみにこの治世、ロシアの勢力はオホーツク海に及び、カムチャートカ半島、チュクチ半島が «発見» されている。
そして1649年にヤクーツクを出発したハバーロフが、アムール沿岸地域の住民に貢納を強要するが、これにより清朝との対立が芽生えた(清朝との対立を嫌ったアレクセイ・ミハイロヴィチは、ハバーロフへの支援を打ち切った)。
1661年にはイルクーツクが建設されている。
ちなみに、このようなシベリア進出には、イヴァン雷帝の時代からコサックが使われていた。のち、ザバイカーリエ、アムール、ウスリー、セミレーチエなどにもコサック軍団が誕生したのは、このためである。
1674年、生き残ったうちの長男ツァレーヴィチ・フョードル・アレクセーエヴィチを国民に «お披露目»(事実上後継者に指名)。
父よりも若いその死は、何によってもたらされたのだろうか。クレムリンのアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬された。
身長は 180 cm あったと言われる。
なお、ロシアではかれは «Тишайший(はなはだ静かな)» と呼ばれた。この意味については、アレクセイ・ミハイロヴィチ個人の人格を指すとする説と(実際側近によると物静かで穏やかな性格だったらしい)、かれの治世が平穏であったことを指すとする説とがある(もっとも現実にはアレクセイの治世も波乱万丈だったが)。
いずれにせよ、のちにアレクセイ・ミハイロヴィチの治世は一種 «理想化» され、古いモスクワ・ロシアの文化が最後に花開いた時期だと見なされた。最後の皇帝ニコライ2世も、アレクセイ・ミハイロヴィチを自身の理想としていたと言われる(皇太子もアレクセイ・ミハイロヴィチにちなんで名づけられた)。