アレクサンドラ・イオシフォヴナ (アレクサンドラ)
Alexandra Friederike Henriette Pauline Marianne Elisabeth, Александра Иосифовна
ザクセン=アルテンブルク公女 Prinzessin von Sachsen-Altenburg
大公妃 великая княгиня (1848-)
生:1830.06.26/07.08−アルテンブルク(テューリンゲン、ドイツ)
没:1911.06.23/07.06(享年80)−ムラーモルヌィー宮殿(サンクト・ペテルブルク)
父:ヨーゼフ 1789-1868 ザクセン=アルテンブルク公(1834-48)
母:ルイーゼ・アマーリエ 1799-1848 (ヴュルテンベルク公ルートヴィヒ)
結婚:1848−パーヴロフスク
& コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 1827-92 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公と | |||||||
1 | ニコライ | 1850-1918 | 1882 | ナデージュダ | 1861-1929 | アレクサンドル・ドレイエル | ロシア人 |
2 | オリガ | 1851-1926 | 1867 | ゲオルギオス1世 | 1845-1913 | ギリシャ王(1863-1913) | 君主 |
3 | ヴェーラ | 1854-1912 | 1874 | オイゲン | 1846-77 | ヴュルテンベルク公(1875-77) | ドイツ諸侯 |
4 | コンスタンティーン | 1858-1915 | 1884 | エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ | 1865-1927 | ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ | ドイツ諸侯 |
5 | ドミートリー | 1860-1919 | − | ||||
6 | ヴャチェスラーフ | 1862-79 | − |
ドイツの領邦君主ヨーゼフの第五子(五女)。ルター派。
アルテンブルクを訪れたニコライ1世が気に入り、呼び寄せられたコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公も合意して、婚約が成る。あるいは、1846年の姉オリガ・ニコラーエヴナ大公女とヴュルテンベルク王太子カールとの結婚式に参列したのが、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公とアレクサンドラとの初対面であったとも言われる(アレクサンドラ、王太子カール、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の3人は又従兄弟同士)。
1847年、ロシアへ。1848年に正教に改宗し、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公と結婚。
ちなみに父は、アレクサンドラが結婚した年、三月革命の余波で弟ゲオルクに譲位。この年には母も亡くし、アレクサンドラにとっては激動の1年となった。
大公妃となったアレクサンドラ・イオシフォヴナは、夫とともにパーヴロフスク、ストレーリナ、あるいはサンクト・ペテルブルグのムラーモルヌィー宮殿に住んだ。
アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は明るい気性で、ロマーノフ一族内部では «サニー Sanny» と呼ばれていた。また、美しさと、何よりも優雅さで社交界の評判となった。
コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公もアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃も音楽を愛し、それぞれチェロとピアノを弾いて楽しむ仲のいい夫婦だったらしい。ちなみにヨハン・シュトラウスもアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃に曲を捧げている。
政治信条的には、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公がリベラルで改革を強力に推進したのに対し、アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は逆に保守的であった。それでも当初は、仲の良かった夫をアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃はさまざまな場面で後押ししたらしい。1862年にポーランド副王となった夫が宥和策を打ち出すと、政府からは批判を浴びたがアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃はこれを支持した(結局これは一月蜂起の勃発で破綻した)。
しかしやはり根本的な信条の相違は如何ともしがたかったのか、徐々にふたりの心は離れていく。そもそも、芸術的な嗜好はともかく、知的にはふたりはかなりかけ離れていた。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公がかなり高度な教育を受けただけではなく、その後も知的な方面への関心を失わなかったのに対して、アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は知的な方面ではイマイチだった。
決定的だったのは、1860年代末にコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公が外に愛人を持ったことであった。
愛する夫の背信という心痛も影響したのか、アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は徐々に神秘主義に耽溺していく。
70年代以降、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公はふたつの家庭を行ったり来たりする生活を送った(比重は新しい家庭にあった)。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は、愛人アンナ・クズネツォーヴァとの関係を、«礼儀を守って» 自らアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃に告白した。義妹アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃と違い、アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は夫の不貞をじっと耐えた。
70年代はアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃にとって試練の時期で、1874年には長男ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が国内追放処分を受け、1879年には末男ヴャチェスラーフ・コンスタンティーノヴィチ大公が若くして死去。
特に1874年の事件は、長男が引き起こしたものであり、結果としてサンクト・ペテルブルグから追放されたのみならず、これによってアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃が結婚に際して皇帝ニコライ1世からもらったイコンが失われたことが、神秘主義やオカルトに耽溺していたアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃にとっては大打撃であった。
80年代以降はムラーモルヌィー宮殿にはほとんど足を向けず、パーヴロフスクで過ごす。ちなみに、パーヴロフスクにはアンナ・クズネツォーヴァも住んでいた。
1889年、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公が脳卒中に見舞われ、言語機能と両脚が麻痺。アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃がその面倒を看る。
夫の死の直前、アンナ・クズネツォーヴァと子供たちを呼んで最期の別れをさせたとも言われる。
義弟ミハイール・ニコラーエヴィチ大公とともに、この世代の最後の生き残り(そのミハイール・ニコラーエヴィチ大公も1903年以降はカンヌで静養していた)として、ニコライ1世時代を知る唯一の生き残り(1909年にミハイール・ニコラーエヴィチ大公とヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公が死ぬと、ニコライ1世時代に生まれたロマーノフは他にいなくなった)として、大きな権威を有する。彼女自身、伝統とマナー・エティケットにはうるさかった。
アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃は1903年以降、パーヴロフスクを引き払ってムラーモルヌィー宮殿に。
晩年はほとんど視力を失った。
その死後は、彼女自身の希望によって «大公霊廟» の、夫コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の隣に埋葬された。
ちなみに享年80というのは、アンナ・フョードロヴナ大公妃を抜いて、ロマーノフ家の最高齢記録を更新。