アレクサンドル・ミハイロヴィチ
Александр Михайлович
大公 великий князь
生:1866.04.01/04.13−ティフリス(現トビリシ、グルジア)
没:1933.02.26(享年66)−ロクブリューヌ(フランス)
父:ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 1832-1909 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
母:オリガ・フョードロヴナ大公妃 1839-91 (バーデン大公レーオポルト1世)
結婚:1894−ペテルゴーフ
& クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女と | |||||||
1 | イリーナ | 1895-1970 | 1914 | フェリクス・ユスーポフ公 | 1887-1967 | フェリクス・フェリクソヴィチ・エリストン=スマロコフ伯 | ロシア貴族 |
2 | アンドレイ | 1897-1981 | 1918 | エリザベッタ | 1887-1940 | サッソ=ルッフォ公ファブリツィオ・ルッフォ | イタリア貴族 |
1942 | ナディーヌ | 1908-2000 | ハーバート・マクドゥガル | イギリス人 | |||
3 | フョードル | 1898-1968 | 1923 | イリーナ・パーレイ公女 | 1903-90 | パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 | ロマーノフ家 |
4 | ニキータ | 1900-74 | 1922 | マリーヤ | 1903-97 | イラリオーン・イラリオーノヴィチ・ヴォロンツォーフ=ダーシュコフ伯 | ロシア貴族 |
5 | ドミートリー | 1901-80 | 1931 | マリーナ | 1912-69 | セルゲイ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ伯 | ロシア貴族 |
1954 | シーラ | 1898-1969 | ハリー・キスホルム | オーストラリア人 | |||
6 | ロスティスラーフ | 1902-78 | 1928 | アレクサンドラ | 1905-70 | パーヴェル・パーヴロヴィチ・ゴリーツィン公 | ゲディミノヴィチ |
1945 | アリス | 1923-96 | アルヴィン・アイルケン | アメリカ人 | |||
1954 | ヘドヴィヒ | 1905-97 | カール・フォン・シャピュイ | ドイツ貴族 | |||
7 | ヴァシーリー | 1907-89 | 1931 | ナターリヤ | 1907-89 | アレクセイ・ヴラディーミロヴィチ・ゴリーツィン公 | ゲディミノヴィチ |
ミハイロヴィチ。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公の第五子(四男)。
皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。同じく従姉妹にギリシャ王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女とスウェーデン王妃ヴィクトリア(1862-1930)がいる。
«サンドロ Sandro» と呼ばれた。
1881年、父がカフカーズ副王の任を解かれて国家評議会議長となり、ティフリスからサンクト・ペテルブルグにお引越し。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公も生後15年間住み慣れたカフカーズを去り、ミハイロフスキー宮殿へ。
15といえば半分大人、半分子供といったところか。アレクサンドル3世の子供たちと仲良く遊ぶようになった(のちの皇帝ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公はふたつ年下)。クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女との結婚もその延長線上と言える。
ミハイロヴィチ兄弟が、成人する前に死んだ末弟アレクセイ・ミハイロヴィチ大公を除いて全員失恋を経験し、長兄ニコライ・ミハイロヴィチ大公と次弟セルゲイ・ミハイロヴィチ大公にいたってはその後生涯独身を貫いたのに対して、幼い頃からの遊び仲間とそのままゴールインしたアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は唯一の例外で、その限りにおいては幸せであったと言えるだろう。
父や兄たちと異なり海軍軍人となった。海軍に入ったロマーノフとしては、伯父コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公、従兄弟アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公に次いで3人目。ちなみにこの後には弟アレクセイ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公とキリール・ヴラディーミロヴィチ大公がいるだけ。やはりロシアは陸軍国だったのだ。ちなみに、ロマーノフには気管支の弱い人間が多かったことも、海軍軍人が少ない理由のひとつに挙げられる(コンスタンティーノヴィチはそのせいで全滅した)。
若い頃は、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はインドや南米などを軍艦で訪問。20世紀に入ると軍艦の艦長として、あるいは艦隊司令部に勤務し、海軍の近代化と増強のため尽力する。すでに1895年には、将来の日露戦争勃発を予見して太平洋艦隊の増強を進言している。
ロシア海軍は日露戦争でその非効率性、前近代性を露呈し、最高責任者アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公が罷免された。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は依然海軍内での地位も階級も決して高くはなかったが、ロマーノフ一族、特に皇帝ニコライ2世の義弟という立場を利用して海軍再建に活躍する。1909年、海軍中将。
同時に、空軍の創設、育成にも力を尽くす。1910年にはセヴァストーポリに最初の航空学校を創設。
1906年頃にはクセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女との関係は壊れた。1906年、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はビアリッツで愛人(名前不詳)と関係を持つようになる。クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女も同様で、互いに愛人を持ちつつ離婚はしなかった。
フリーメーソン会員で、薔薇十字団にも関与していたと言われる。
ロシア情勢や宮廷の状況に不満を覚えたアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は、第一次世界大戦勃発前の数年はほとんどロシアに寄り付かず国外で過ごした。
第一次世界大戦では南西戦線の司令部(キエフ)に勤務し、空軍を指揮。
キエフに勤務していたことがアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公に幸いしたと言える。革命当時ロシアにいたミハイロヴィチ兄弟の中で、唯一ボリシェヴィキーによる処刑を免れた。処刑されたか否かの分かれ目が革命後にペトログラードにいたか否かにあった。
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はキエフから、義母の皇太后マリーヤ・フョードロヴナ、妻クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女、子供たち、さらには義妹オリガ・アレクサンドロヴナ大公女一家を引き連れて、クリミアにある所領アイ=トドルに避難した。
クリミアは革命騒動を逃れたロマーノフ一族の溜まり場となったが、やがてここにも革命の波が及び、アレクサンドル大公一家も臨時政府により自宅軟禁状態に置かれた。十月革命後はヤルタとセヴァストーポリのボリシェヴィキーがロマーノフ一族を捕らえんとしたが、しかしその直前にドイツ軍が侵攻。白衛軍の活動が本格化したこともあり、ボリシェヴィキーの脅威は去った。
1918年末、ドイツとオーストリアの降伏により第一次世界大戦が終結。戦後処理を巡りパリ講和会議が開催されることになった。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はロマーノフ一族の代表としてこれに出席するため、家族を残してクリミアから出国した。この当時はボリシェヴィキーの命運も風前の灯と認識されており、クリミアのロマーノフ一族の中にあえて国外に出国しようという者はおらず、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公にもこの時は «亡命» という認識はなかった。
パリでは各国代表にロシアへの干渉を交渉したが、実らず。逆に、すでに干渉軍を派遣していた列強は(日本を除いて)相次いで軍を撤退させる始末だった。
クリミアに残ったロマーノフ一族も1919年には国外脱出を余儀なくされた。
クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女や子供たちがイギリスに住む一方、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はフランスに。また別の女性(イギリス人)を愛人としたが、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女が離婚を拒否。パリに住んでいた娘イリーナ・アレクサンドロヴナ公女とは良好な関係を保った。
講演活動などで生活をつなぐ。晩年は回想録を出版。これまで散々研究などに利用されてきたが、かなり偏向がかかっている。
ロクブリューヌの墓地に埋葬された。