アレクサンドル・ドミートリエヴィチ・ランスコーイ
Александр Дмитрьевич Ланской
生:1758.03.08/03.19
没:1784.06.25/07.06(享年26)−ツァールスコエ・セロー
父:ドミートリー・アルテーミエヴィチ・ランスコーイ
母:?
愛人:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96
結婚:なし
子:なし
スモレンスクの貧窮地主。正教徒。
女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの9人目の愛人。
ランスコーイ家はポーランド出身と言われている。16世紀からモスクワ大公に仕えているが、これといった人物を輩出していない。ただし19世紀に入ると、アレクサンドル・ドミートリエヴィチの従兄弟やその子たちが官僚として活躍している。
1772年、イズマイロフスキー連隊に入隊。
グリゴーリー・ポテョームキン公の推挙でエカテリーナ2世の愛人となる。ただしその時期については諸説あり、1778年から1780年まで幅がある。グリゴーリー・オルローフ公に次ぐ、愛人としての最長記録を誇ると言われることもあるが、だとすると1778年でないとおかしい。
これといった教育を受けてはいなかったが、勉強熱心だったらしい。その際に教師役を務めたのが、ほかならぬエカテリーナ2世だった。啓蒙主義者を気取ったエカテリーナ2世には、アレクサンドル・ランスコーイの勉強に対する熱意が殊のほか気に入った。
これ以降、エカテリーナ2世は愛人たちの «教師» を気取るようになる(が、残念ながらアレクサンドル・ランスコーイほど熱心な生徒には恵まれなかった)。
死因はジフテリア。エカテリーナ2世は特にその死を嘆き悲しんだ。遺骸はツァールスコエ・セローに葬られた。