アードルフ
Adolf(Adolph) Wilhelm Karl(Carl) August Friedrich, Адольф
ナッサウ公 Herzog von Nassau (1839-66)
ルクセンブルク大公 Großherzog von Luxemburg/Grand Duc de Luxembourg (1890-)
生:1817.07.12/07.24−ビーブリヒ城(ヴィスバーデン、ドイツ)
没:1905.11.04/11.17(享年88)−ホーエンブルク城(バイエルン、ドイツ)
父:ヴィルヘルム 1792-1839 ナッサウ公(1816-39)
母:ルイーゼ 1794-1825 (ザクセン=ヒルドブルクハウゼン公フリードリヒ)
結婚①:1844−サンクト・ペテルブルグ
& エリザヴェータ・ミハイロヴナ大公女 1826-45 (ミハイール・パーヴロヴィチ大公)
結婚②:1851
& アーデルハイト 1833-1916 (アンハルト=デッサウ公フリードリヒ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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エリザヴェータ・ミハイロヴナと | |||||||
1 | 1845 | − | |||||
アーデルハイトと | |||||||
2 | ヴィルヘルム(ルクセンブルク大公4世) | 1852-1912 | 1893 | マリア・アナ | 1861-1942 | ポルトガル王ミゲル1世 | 君主 |
3 | フリードリヒ | 1854-55 | − | ||||
4 | マリー | 1857 | − | ||||
5 | フランツ・ヨーゼフ・ヴィルヘルム | 1859-75 | − | ||||
6 | ヒルダ | 1864-1952 | 1885 | フリードリヒ2世 | 1857-1928 | バーデン大公(1907-18) | ドイツ諸侯 |
ドイツの領邦君主ヴィルヘルム1世の第三子(長男)。ルター派。
ナッサウ家は12世紀に遡る北西ドイツの弱小貴族。13世紀末にはハプスブルク家に代わってドイツ王を輩出したりもしたが、それも弱小貴族なればこそ。以後複数の家系に分裂。結局生き残ったのはナッサウ=ディレンブルク系、ナッサウ=ディーツ系、そしてナッサウ=ヴァイルブルク系の3つだけ。
ナッサウ=ディレンブルク系とナッサウ=ディーツ系がオランダ王家のオラニエ家だが、ナッサウ=ヴァイルブルク系がアードルフの家系。ヴェストファーレンの弱小貴族だったが、1815年のヴィーン会議では独立国家として認められた。おかげでアードルフの異母妹ゾフィーア(1836-1913)がスウェーデン王妃になるなど、家格も上がったと言っていいだろう。
1837年に姉テレーゼがピョートル・ゲオルギエヴィチ・オリデンブルグスキイ公と結婚。アードルフがエリザヴェータ・ミハイロヴナ大公女と結婚したのはその縁か?
ナッサウの君主としては産業の育成に力を注ぎ、国民の人気が高かったらしい。
政治的には父同様の保守反動だったが、1848年には三月革命で市民に «権利憲章» を与える(もっともナッサウでは革命騒動は大したことはなかった)。
反プロイセン派で、1866年の普墺戦争ではオーストリア側に立つ。このため、戦後ナッサウ公領をプロイセンに併合された。
国を失ったアードルフは、主にヴィーンやフランクフルト=アム=マインに居住した。
1890年、オランダ王・ルクセンブルク大公ウィレム3世(1817-90)が死去。オランダ王位は娘のウィルヘルミーナ(1880-1962)が継いだ。
しかし、オランダからの独立を希求していたルクセンブルクは、これを契機にその夢を果たそうとする。ルクセンブルク大公国はドイツ諸邦のひとつであり、ドイツでは伝統的に女系による継承が認められていなかった。これを楯にルクセンブルクはウィルヘルミーナの大公位継承を拒否し、代わってウィレム3世の遠い遠い親族にあたるアードルフをルクセンブルク大公として招いたのである。
ただし1907年に憲法を改正し、女系による大公位継承を可能にした。そのため、現在の大公家はブルボン家である。
保守的なアードルフにはルクセンブルクは合わなかったのか、あるいは単に老齢だったからか、1902年には長男ヴィルヘルムに執政権を譲っている。
ちなみに、1897年に姪ゾフィー・フォン・メーレンベルクにトルビ伯妃の称号を与えている。