サヴォイア家は、現在南仏のサヴォワ地方に発する名門。11世紀前半のウンベルト・ビアンカマーノに始まる。シャモニー、グルノーブルなどのリゾート地を基盤とし(当然当時はリゾート地ではなかった)、12世紀半ば頃からサヴォイア伯を自称。フランスやイングランドの王家とつながりを持ち(ロンドンのサヴォイ・ホテルはその名残)、13世紀にはアルプスを越えて北伊ピエモンテにも進出。またジュネーヴも一時支配した。15世紀に神聖ローマ皇帝により伯から公に格上げされる。
一時はほとんどフランス貴族化していたが、サヴォワ地方は当時は神聖ローマ帝国領で、16世紀に入るとこの地方に領土を拡大してきたフランスとしばしば対立し、サヴォイア公はアルプス南麓、つまり北イタリアへと勢力を拡大。主都をトリノに移す。
スペイン継承戦争でシチリア王。しかしその後シチリアは取り上げられ、代わってサルデーニャを与えられる。とはいえ歴代サルデーニャ王はサルデーニャ島には住まず、トリノを中心としたピエモンテ地方が王国の心臓部であった(このためピエモンテ王とも呼ばれる)。
19世紀、イギリスの «属国» となった両シチリア王、ハプスブルク家のトスカーナ大公、ブルボン家のパルマ公などが割拠する中、イタリア人の統一の希望となったのがサヴォイア家のサルデーニャ王であった。1860年、半島を統一し、イタリア王となる。
1946年、国民投票で共和制が樹立され、王家は亡命。
言うまでもなくカトリックである。が、バルカンへの野心からか、バルカンの王家と婚姻関係を結んでいる。そのため、ロマーノフ家とのつながりも皆無ではない。モンテネグロ王女を通じて、ヴィットーリョ・エマヌエーレ3世がニコライ・ニコラーエヴィチ大公とピョートル・ニコラーエヴィチ大公の義理の兄弟になる。ロシア革命後、ふたりがイタリア王家の世話になったのもその縁である。
とはいえ、本家(イタリア王家)にはロマーノフ家の血は流れていないし、ロマーノフ家にもサヴォイア家の血は流れていない。
ただし、分家アオスタ公家の当主アメデオ3世は、母方を通じてニコライ1世の5代の孫にあたる。
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水色枠はサヴォイア家。赤紫枠は女性。