ロマーノフ家

Романовы

ロマーノフ家(ロマノフ家)は1613年から1917年までロシアのツァーリ・皇帝をほぼ独占的に輩出してきた家系である。

前史

 «ロマーノフ家» というのは厳密には(厳密でなくとも)フョードル・ニキーティチ・ロマーノフの子孫のことをいう。フョードル・ニキーティチの時代はまだ姓というものが確立しておらず、それ以前はロマーノフ家の祖先も様々な姓で呼ばれている。

 ロマーノフ家の祖をたどっていくと、1347年の年代記に登場するアンドレイ・イヴァーノヴィチ・コブィラに行き着く。その出自は伝説におおわれていてはっきりしない。かれの兄弟や子から多くの貴族の家系が生じたとされるが、家系図がそう言っているだけであって、確かなところは不明である。

 その子フョードル・コーシュカは、ドミートリー・ドンスコーイやヴァシーリー1世の下で活躍したことが確かである。その子、直系の孫・曾孫は、いずれもかれにちなんで «コーシュキン» と呼ばれている。

 フョードル・コーシュカの子のうち、アレクサンドル・ベズズーベツの子孫は «ベズズーブツェフ» と呼ばれた。ベズズーブツェフ家は、おそらく17世紀までには断絶していたものと思われる。ここから分かれたのがシェレメーテフ家とエパンチーン家である。シェレメーテフ家(伯家)は現存する。エパンチーン家も現存する(少なくとも20世紀半ばの時点で)。ドストエーフスキーが『白痴』で成金として描いたエパンチーン将軍がこの家系と何らかの関係があるのか、そもそもドストエーフスキーがなぜあえて実在の家名をその登場人物に名乗らせたかは不明。
 またフョードル・ゴルテャーイの子らは «ゴルテャーエフ» と呼ばれたが、これは1世代で断絶した。

 イヴァン・コーシュキンとザハーリー・コーシュキンについてはほとんど知られていない。しかしザハーリー・コーシュキンの子と孫、さらに一部の曾孫は «ザハーリイン» と呼ばれており、ザハーリー・コーシュキンが有力者だったのではないかと思わせる。

 ヤーコフ・コーシュキン(=ザハーリイン)の子孫は «ヤーコヴレフ» と呼ばれた。ヤーコヴレフ家は19世紀半ばのアレクセイ・アレクサンドロヴィチの死で断絶しているが、一族で最も著名な人物が庶子として生まれたゲルツェンである。

 ロマーン・ザハーリインの子らは、やはり «ザハーリイン» と呼ばれるのが一般的だが、«ユーリエフ» とも呼ばれる。

 ニキータ・ザハーリイン(=ユーリエフ)の子らは «ロマーノフ» と呼ばれた。上述のように、ロマーノフ家とはかれとその子孫を指す。
 イヴァン・ニキーティチの子ニキータは «ロマーノフ» とも «ニキーティン» とも呼ばれている。順当に行けば同世代のミハイール・フョードロヴィチもまた、同じくニキーティンと呼ばれても良かったはずだったが、かれがツァーリになった時点ではまだロマーノフと呼ばれた父が存命中だったので、かれおよびかれの子孫はニキーティンではなくロマーノフと呼ばれることになった。

皇帝家

 ニキータ・イヴァーノヴィチの死で、ロマーノフ家の男子はツァーリであったアレクセイ・ミハイロヴィチだけとなった。アレクセイ・ミハイロヴィチには成人した男子が3人いたが、男系子孫を残したのはピョートル大帝だけである。そのピョートル大帝の男系子孫も、長男アレクセイ、孫ピョートル2世だけであり、ピョートル2世が子なくして死んだことにより、ロマーノフ家は断絶した。
 女系の子孫も、代々の娘たちが結婚しなかったためにほとんどいない。例外的にピョートル大帝の次の世代の娘たちが結婚したため、エカテリーナ・イヴァーノヴナとアンナ・ペトローヴナの子孫が残った。のちの時代のロマーノフ家とは、アンナ・ペトローヴナの子孫のことである。

 18世紀は女帝の時代とも呼ばれるが、エカテリーナ1世、アンナ・イヴァーノヴナ、エリザヴェータ・ペトローヴナ、エカテリーナ2世と4人の女帝が現れている。このうちふたりのエカテリーナは、どちらも他家から迎え入れられた嫁である。さらに男子の皇帝のうち、イヴァン6世とピョートル3世もまた、他家出身の «養子» である。
 この時代はまた、皇位の継承が不安定な時期でもあった。最終的にピョートル3世とエカテリーナ2世の子であるパーヴェル・ペトローヴィチに落ち着いて、ようやく皇位継承が安定する。それとともに、ロマーノフ家にも分家が誕生する。
 ちなみにピョートル3世とその男系子孫はアンナ・ペトローヴナの子孫であり、男系からするとホルシュタイン=ゴットルプ家(オルデンブルク家)の出身であるので、«ロマーノフ=ホルシュタイン=ゴットルプ家» と呼ばれることもある。

 18世紀まではまったく分家のなかったロマーノフ家だが、19世紀に入ってニコライ1世の子から3つの分家が出ている。一般的に、次男コンスタンティーン大公の子孫をコンスタンティーノヴィチ、三男ニコライ大公の子孫をニコラーエヴィチ、四男ミハイール大公の子孫をミハイロヴィチと呼ぶ。
 長男アレクサンドル2世の子孫、あるいはアレクサンドル3世の子孫をアレクサンドロヴィチと呼ぶこともあるが、あまり一般的ではない。
 また、アレクサンドル2世の三男ヴラディーミル大公の子孫をヴラディーミロヴィチと呼ぶこともある。

後史

 «後史» とはおかしな言葉だが。
 ロマーノフ家は、1917年の革命で皇位を喪失し、相次いでボリシェヴィキーに殺されるか、あるいは国外への亡命を余儀なくされた。その後のロマーノフ家の歴史については、個々の人物か皇位継承のページを参照されたい。

外国王家との関係

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最終更新日 08 02 2013

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