ロマーノフ家とハプスブルク家

いまさら言うまでもないと思うが、一言。
 ハプスブルク家では、10世紀後半に登場するグントラムが歴史に名を残した最初の人物である。その後南西ドイツ(特にスイス)に所領を拡大し、ハプスブルク伯を名乗るようになる。
 13世紀後半、ルードルフ4世がドイツ王に選ばれ(王としては1世)、オーストリア公領を奪い、一躍ドイツの有力諸侯となる。もっともこの時期スイスではヴィルヘルム・テルが現れてその領土を失うし、ドイツ王位(神聖ローマ皇位)も他家に奪われたりしている。
 15世紀に入ると、神聖ローマ皇位を世襲するようになり、シュタイエルマルク、ケルンテン、ティロル、ブルゴーニュ(ベネルクス)、スペイン、ボヘミア、ハンガリー、ロンバルディアを相次いで獲得し、ヨーロッパ有数の名門となった。
 1740年、皇帝カール6世の死で男系は断絶(あらゆる分家も死に絶えている)。ドイツでは女系相続が一般的に認められていなかったため、オーストリア継承戦争が勃発するが、ハプスブルク家領は娘マリーア・テレージアが、神聖ローマ皇位はその夫ロレーヌ公フランソワ(ロートリンゲン公フランツ)が継承することで決着した。
 なお、«ハプスブルクの顎» はマリーア・テレージア以降発現していない(わたしの知る限り)。

 マリーア・テレージアとフランツ1世以降のハプスブルク家をハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ぶこともある。ふたりの子らからハプスブルク家は多くの分家が出る。
 本家はナポレオン戦争の最中に神聖ローマ皇位を棄て(これにより神聖ローマ帝国は滅亡した)、オーストリア皇帝を自称。1866年、プロイセンに敗れてドイツ統一の指導権を失う。このため1871年にドイツ帝国が成立した際にも、オーストリアは蚊帳の外であった。1867年にハンガリーと合意に達し、オーストリア=ハンガリー二重帝国となる。1918年、帝政が崩壊。皇家は亡命した。
 分家のひとつはトスカーナ大公家となっていたが、1860年、サヴォイア家によりイタリアが統一されると国を失う。
 またほかにあまたの分家がある(肩書きはオーストリア大公)。

 ロマーノフ家は17世紀以来ハプスブルク家とは、特にオスマン帝国を共通の敵としてしばしば同盟してきた。
 しかし正教のロマーノフ家とカトリックのハプスブルク家との間には、ヨーゼフ・アントン大公とアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女との結婚を唯一の例外として、直接的な縁組はひとつもない。それどころか間接的なつながりもほとんどなく、オーストリア皇帝家の現当主オットーにも、トスカーナ大公家の現当主レオポルト・フランツにも、ロマーノフ家の血は流れていない。

 以下、スタイルシートで家系図を示す。環境次第では(正確に)表示されない。悪しからず。(正確に)表示されない場合はこちらの画像を。
 赤枠はツァーリ・皇帝。水色枠はハプスブルク家。オレンジ枠は外国の君主。赤紫枠は女性。

シャルロッテ・クリスティーネ
アレクセイ
アンナ
エリーザベト・クリスティーネ
皇帝カール6世
ピョートル2世
ピョートル3世
«女帝»マリーア・テレージア
パーヴェル
皇帝レーオポルト2世
アレクサンドラ
ヨーゼフ・アントン
皇帝フランツ2世・1世
トスカーナ大公フェルディナンド3世
皇帝フェールディナント1世
フランツ・カール・ヨーゼフ
大公レオポルド2世
皇帝フランツ・ヨーゼフ
カール・ルートヴィヒ
大公フェルディナンド4世
オットー・フランツ・ヨーゼフ
ペーター・フェールディナント
皇帝カール1世
ゴットフリート
オットー
レーオポルト・フランツ

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最終更新日 03 05 2013

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