ロシア用語の基礎知識:シ

シェーニン オレーグ
1937-2009。政治家。共産党アパラーチク。1990年には共産党政治局員・書記(1990-91)として最高指導部入りし、共産党の組織・人事を統括して、事実上ゴルバチョーフ、イヴァシュコに次ぐナンバー3となった。その政治的立場は守旧派。八月クーデタでは非常事態委員会のメンバーにはならなかったものの、クリミアに赴いてゴルバチョーフに辞任を要求したり、党組織のまとめ役となったり、中心的な役割を果たしている。ソ連崩壊後も旧共産党糾合の中心人物として活動するが、ロシア共産党議長ジュガーノフと対立。
シェワルナゼ エドゥアルド
1928-。政治家。グルジア内相(1965-72)、グルジア共産党第一書記(1972-85)として、グルジアの腐敗にメスを入れる。ゴルバチョーフにより、グロムィコの後任として外相に(1985-90)。同時に共産党政治局員(1985-90)。外交経験はまったくなかったが、新思考外交の顔として活躍した。ペレストロイカが進行して上からの統制が利かなくなると、ゴルバチョーフは自身の権力基盤の強化をはかるが、これに反対して「独裁が近づきつつある」との言葉を残して辞任。ソ連崩壊後、グルジア最高会議議長(1992-95)・大統領(1995-2002)。しかし染み付いた権威主義的体質が抜けなかったのか、その漸進主義的姿勢が気に入られなかったのか、«バラ革命» で職務を追われた。
『シオンの賢者の議定書』
ユダヤ人による世界征服計画という陰謀史観の基になったもの。実はこれは、ロシアで最初に公表された。1902年にミハイール・メーニシコフなる記者が新聞『ノーヴォエ・ヴレーミャ』の記事の中で(否定的に)言及し、1903年に極右の出版者パーヴェル・クルシェヴァン(同年にキシニョフでユダヤ人大虐殺を煽動した)がその新聞『ズナーミャ』に掲載し、1905年にセルゲイ・ニールスなる人物が著書の中で全文を引用してみせた。これがその後世界各国に広まっていった。作者については、パリ在住の記者マトヴェイ・ゴロヴィーンスキー(を使っていた秘密警察のパリ部長ピョートル・ラチコーフスキー)が挙げられることが多いが、はっきりしない。クルシェヴァン、ニールス、ゴロヴィーンスキーはいずれも反ユダヤ主義者であり、実際の作者が誰であれ反ユダヤ主義を煽るために捏造し出版したのだろうが、これほど大きく長期的な影響を与えるとは考えてもいなかったに違いない。もっとも、『シオンの賢者の議定書』が捏造文書であると物証によって証明されたわけではなく、文書そのもの、あるいは少なくとも内容は真実であると信じる人々もいる(モーリス・ジョリ『地獄での対話』が元ネタだが、元ネタの存在は『議定書』が捏造である証拠にはならない)。
シクロフスキー ヴィクトル
1893-1984。文学者・評論家。フォルマリズムの中心人物として知られる。
シーシキン イワン
1832-98。画家。«移動展派» のひとり。主に森林を中心とした風景画で知られる。
シチェルバ レフ
1880-1944。言語学者。ボードワン・ド・クールトネの教え子であり、師の «音素» という概念を発展させてレニングラード学派を形成した。
シベリア
日本でシベリアと言うとシベリア出兵やシベリア抑留がイメージされるが、地理的には日本で理解されるシベリアとロシアにおけるシベリアとではズレがある。たいていのロシア人、特にモスクワなどヨーロッパに住んでいるロシア人は、シベリアと聞くとウラル山脈の東側をイメージする(西シベリア)。そのさらに東側に東シベリアが広がり、太平洋沿岸部は極東と呼んでシベリアとは区別する。つまり日本人がイメージするシベリアとは、シベリアではなく極東のことである。シベリア出兵やシベリア抑留(の大部分)も、シベリアではなく極東の話である。なお、ヤクート=サハ共和国は、行政上は極東に含まれるが、地理的認識としてはシベリア(東シベリア)である。
シベリア高気圧
ロシアでは «アジア高気圧» と呼ぶ。バイカル湖付近に中心を持ち、ユーラシア大陸のかなりの地域に影響を及ぼす、北半球最大規模の高気圧。放射冷却により冷やされた内陸シベリアの寒気が、ヒマラヤ山脈によりインド亜大陸の暖気から切り離されているため、9月以降発達し、巨大な高気圧となる。東は太平洋で途切れるものの、西では時には中央ヨーロッパにまで、南では東南アジアにまで寒気をもたらすこともある。日本ではいわゆる冬将軍であるが、ヨーロッパではナポレオンとナチスをモスクワから敗退させた元凶ともなる。地表が徐々に暖まっていくと気圧も低下し、4月頃にはシベリア高気圧は消える。
シベリアン・ハスキー
犬の品種のひとつ。シベリアではなく極東の原産。チュクチ人により主に犬ぞり用として飼育されていた。そこからアラスカを経てアメリカにわたり、ゆえに世界的に英語で知られている。ロシア語でも «シビールスキー・ハスキー» と呼ばれているようだが、もともとは単に «ライカ» であった。どうでもいいが、なぜ «サイベリアン・ハスキー» ではないのだろう。
シャガール マルク
1887-1985。画家。ロシア語ではもともと «シャガーロフ» と記されていたが、こんにちでは自身の署名に従いシャガールとされる。
シャターリン スタニスラフ
1934-97。経済学者。科学アカデミーやモスクワ大学に勤務。ペレストロイカに同調し、1990年には急進的な市場経済移行案 «500日計画案» をまとめる。これは連邦レベルでは議会で廃案とされたが、ロシア・レベルではエリツィンが採択した。もっともこれはゴルバチョーフとエリツィンと駆け引きの道具として使われただけという感じであり、実際エリツィンもシャターリン案を(そのままの形では)実行しなかった。
シャリャーピン フョードル
1873-1938。バス歌手。日本語では «シャリアピン» とも表記される。
ジャンガリアン・ハムスター
ゴールデン・ハムスターに次いでペットとして人気のあるハムスター。ジュンガル盆地由来とされたのでこの名があるが、シベリアにも広く棲息する。そのためか、フランスでは «ロシアのハムスター hamster russe» と呼ばれている。
宗教改革
ロシアで宗教改革と言った場合、総主教ニーコンによる典礼改革のことである。ロシアの典礼には、独自の風習がかなり混じっており、しかもロシア各地で微妙に異なっていた。これを、他の正教会を範として統一しようとしたのがニーコンの改革である。1654年の教会会議で公認され、実施された。しかし古来の典礼に固執した人々が «古儀礼派» として正教会から分離した(このためかつては «分離派» と呼ばれた)。
『ジュディー・メニャー(ぼくを待っていて)』
コンスタンティーン・シーモノフの詩。1941年の独ソ戦開始直後に従軍記者となって前線に赴くシーモノフが、恋人の女優ヴァレンティーナ・セローヴァに宛てて書いた。本来は個人的な詩だったが、友人の勧めにより1942年に『プラヴダ』に掲載。1943年には映画にもなり、ある意味で大祖国戦争を象徴する詩となった。戦後はあらゆるシュコーリニキ(小・中・高校生)が暗記させられた。全36行の短い詩である。ストーリーがあるわけではなく、シーモノフの想いが綴られているだけ。
ショスタコーヴィチ ドミトリー
1906-75。作曲家。20世紀を代表する作曲家のひとりであり、特に交響曲作曲家としては屈指の存在である。1936年と1948年に社会主義リアリズムの名の下に多くの芸術家が当局に批判された際には、真っ先に名が挙げられた。
シラーエフ イワン
1930-。政治家。航空産業畑を歩む。ゴルバチョーフによりロシア首相に抜擢された(1990-91)。改革派のエリツィン最高会議議長、守旧派のポロズコーフ共産党第一書記にはさまれた、中間派(漸進派)であった。八月クーデタ後、ソ連首相となるが、もはやソ連解体の流れはいかんともしがたく、すぐに辞任。
人民の中へ
1873年から75年を中心に活発化した革命運動。体制内改革に失望した若者たちは、直接 «人民の中へ» 入っていき、かれらに対する宣伝・啓蒙を通じて人民の蜂起による体制転換を図った。対象は農民とされることが多いが、都市労働者も対象である。しかし大多数が農民を相手にしていたのは確かである。農民側の無反応と政府の弾圧により終息。挫折した革命的若者たちは、農村に定住する者と、当局への実力行使(テロ)に訴える者とに分かれた。ここからナロードニキが生まれてくる。

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最終更新日 19 06 2016

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