ロシア用語の基礎知識:ア

アイヴァゾフスキイ イワン
1817-1900。画家。ロシアに珍しい海洋画家(もっともこれほど海洋画を描いたのは世界的にも珍しい?)。
アイトマートフ チンギズ
1928-2008。作家。キルギス人。キルギス人文学者の草分け的存在であり、1950年代末から中央文壇でも評価されるようになった(ちなみに雪解けとは無関係)。1986年の『処刑台』は、中央アジアにおける腐敗や麻薬の蔓延を描き、グラースノスチの流れに乗ってセンセーションを巻き起こした。ペレストロイカ期にはゴルバチョーフの盟友として政治的にも影響力を持った。
アヴァール人
アヴァール人と呼ばれる民族は、ふたついる。ただしロシア語では両者は別の言葉。
 ひとつは авары。テュルク系ないしモンゴル系の遊牧民族で、6世紀に(中央アジアから?)北カフカーズに現れた。その後西進し、同世紀中にドナウ中・下流域に定住。アヴァール・カガン国を築いたが、9世紀には崩壊した。ロシアとの関連はほとんどない。
 もうひとつは аварцы。北東カフカーズの山岳民族で、こんにちダゲスターンの最大勢力。おそらく歴史の曙からカフカーズに居住していたものと思われる。当初はキリスト教徒だったが、13世紀にイスラームに改宗。モンゴルとは友好関係を結び、18世紀末には北東カフカーズの覇権を握るにいたった。その後長いカフカーズ戦争の結果、1864年にアヴァール・ハーン国はロシアに併合された。
アヴロラ号
巡洋艦。日本海海戦にも参加。エトナ火山噴火に際しては、メッシーナ市民の救出にも活躍している。1917年10月25日(旧暦)早朝、ラジオ放送が武装蜂起を呼びかけるレーニンの声明を流す。これを受けてその夜、臨時政府の立てこもっていた冬宮を砲撃。これが十月革命の幕開けを告げる文字通りの号砲となった(もっともこの点については異論もあるが、少なくともソ連時代にはそう喧伝されていた)。レニングラード攻囲戦でも活躍した。その後永遠にネヴァ河畔に繋留されることになり、1957年以来博物館。
アエロフロート
1923年に創業を開始したソ連の国営航空。サービスの悪さでは有名。しかし機種が劣悪であっただけに、パイロットの腕の良さには定評があった。ソ連崩壊後は分裂したものの、現在でもロシア最大の航空会社であり、フラッグキャリアである。
20年前までは、「ロシアに関心がある」とか言うと、「お前はアカか?」とか言われたものである(私的実話)。
赤の広場
なぜ «赤い広場» じゃないんだろう。ロシア語で «赤い» は、古くは «美しい» という意味だった。このため、«赤の広場» とはもともとは «美しい広場» という意味である。モスクワの中央部にあり、西をクレムリン、東をグム(国営百貨店)、北を歴史博物館、南を聖ワシーリー寺院に囲まれている。その場に立ってみると、TVなどで感じていたよりかなり狭い印象を受ける。お隣のクレムリンが600年以上前からロシアの権力の中枢であったため(サンクト・ペテルブルグが首都だった時代を除く)、赤の広場はさまざまな政治的事件の舞台となってきた。
『アガニョーク』
1923年創刊の週刊グラビア雑誌。もっとも『アガニョーク』誌自身は帝政時代末期からの歴史を主張するが、帝政時代のものとの直接的なつながりはない。ソ連時代には可もなく不可もなく、といった感じだったが、1986年にコロティチが編集長に就任すると、グラースノスチの急先鋒として一躍人気雑誌となった。当サイトのロシア語表記に従うと『オゴニョーク』とすべきだが、慣例に従った。
アガンベギャン アベル
1932-。経済学者。科学アカデミー・シベリア支部に勤務し、若手改革派の中心人物となる。ゴルバチョーフのブレーンとなり、ペレストロイカでは在野からこれを強力に推進する論客として知られた。1990年には急進的なシラーエフ案と守旧的なルィシコフ案との折衷案をまとめた。
アクセリロード パーヴェル
1850-1928。革命家。ラサールの影響を受け、バクーニンに共鳴し、最終的にはプレハーノフの協力者となる。1903年以降はマールトフを支持し、メニシェヴィキーの理論家として活躍。合法活動、大衆運動を主張したため、党は少数精鋭の革命家から成るべきだと主張するレーニンから «解党主義者» と呼ばれた。ただし第一次大戦では戦争に反対し、メニシェヴィキーの非主流派となる。十月革命に反対して亡命。
アクチュラ ユースフ
1876?-1935。革命家。ヴォルガ・タタール人。汎テュルク主義のイデオローグ。1905年の第一革命でムスリム大会の開催にかかわり、ガスプラルとともに共同議長を務める。一時カデットの一員となるが、青年トルコ党革命の報を聞いてトルコへ。ちなみにロシア語ではアクチューリン。
悪の帝国
アメリカ大統領で反共主義者のレーガンがソ連に貼ったレッテル。
アシケナージ ヴラディーミル
1937-。ピアニスト。若くして国際的な名声を勝ち得た。1963年に亡命。
アジュベイ アレクセイ
1924-93。ジャーナリスト。フルシチョーフの娘婿として、«雪解け» 時代に『イズヴェスティヤ』紙編集長として活躍。発行部数を大幅に拡大し、西側から «ソ連プレスのキング» と呼ばれた。同時にフルシチョーフのスポークスマンとして、外務省を無視して世界各国を飛び回る。フルシチョーフ失脚とともに解任された。
アゼフ エヴノ
1869-1918。革命家。エスエルのテロ組織の責任者であり、プレーヴェ内相とセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の暗殺を指揮した。しかしその一方でオフラーナのスパイでもあり、1908年、その事実が暴かれた。このため «ロシア革命最大の謎» などと言われる。
アナスターシー
1873-1965。キシニョーフ府主教。十月革命後、亡命。トルコでロシア人亡命者のリーダーとなる。アントーニーの死後、在外ロシア正教会を指導する(1936-65)。第二次大戦中はドイツで反ソ活動を行う。戦後、主にアメリカで活動を継続。アメリカで死去。
アナスタシヤ
1903-18。最後の皇帝ニコライ2世の四女。エカテリンブルグで家族とともにボリシェヴィキーに処刑されたが、その後ドイツにアナスタシーヤを自称する女性(アンナ・アンダースン)が現れたために世間を騒がせる存在となった。日本人をはじめ外国人にとっては皇女アナスタシーヤは有名だが、ロシア人にはほとんど知られていない。
アバクーモフ ヴィクトル
1908-54。政治家。秘密警察官僚として大粛清で活躍。第二次大戦後の粛清を指揮する。特にレニングラード事件の責任者。しかし1951年、リューミンが医師団事件をスターリンに直接報告したことにより失脚。今度はアバクーモフが投獄され、拷問されることになった。スターリンの死でも釈放されることなく、反国家活動の咎で処刑。
アパラーチク
«アパラート(装置・機構)に携わる人間» を意味するが、一般的には共産党の専従機関員のこと。しばしばテクノクラートと対比して、党官僚を指す。
アバルキン レオニード
1930-2011。経済学者。ゴルバチョーフにより副首相に抜擢され、ペレストロイカにおける経済改革の責任者となる。ただしシャターリンの急進改革案には反対した。
アファナーシエフ ヴィクトル
1922-94。ジャーナリスト。『プラヴダ』紙編集長(1976-89)として、ブレージュネフ時代には改革派と目する向きもあったが、ゴルバチョーフのペレストロイカ路線には慎重だった。エリツィンには反対し、その酒乱を暴露したことから『プラヴダ』を追われる。
アファナーシエフ ユーリー
1934-。歴史学者。グラースノスチとともに、歴史にもグラースノスチを全面的に適用することを主張して、ペレストロイカの急進的論客として名を挙げた。1989年にはエリツィン、サーハロフ、ポポーフ、ソブチャークなどと地域間代議員グループを結成。
アフガニスタン侵攻
1978年春、アフガニスタンで革命が起こり、その後混乱が続いた。中央アジアのすぐお隣であり、元来自国の勢力圏と見なしていたこの地域に起こった混乱に不安を覚えたソ連指導部は、1979年12月、軍事介入して、カルマル政権を打ち立てる。これをアフガン侵攻と言う。これは西側にとっては、すでに冷めかけていたデタント・ムードを一気に冷戦気分に逆戻りさせる効果があり、アメリカは翌1980年のモスクワ・オリンピックへの不参加を決めた。その後泥沼の内戦に突入。1989年、ソ連軍は最終的に撤退する。
アフクセンティエフ ニコライ
1878-1943。革命家。エスエル。1905年の第一革命では、トロツキーとともにペテルブルグ・ソヴィエトの中心人物。その後、エスエルのテロ路線から離れ、合法活動を主張してエスエル右派の指導者となる。第一次大戦でも祖国防衛を主張。臨時政府ではケーレンスキーを支持した。十月革命後は «民主主義反革命» の中心人物となり、コムチの指導者となった。
アフマートワ アンナ
1889-1966。詩人。ロシアでは(と言うかヨーロッパでは)、日本では想像できないほど詩人の権威は高い。アフマートヴァも、ほとんどのロシア人がその詩を少なくとも一節ぐらいは知っている超有名人だが、決して特別な存在ではない。
アフロメーエフ セルゲイ
1923-91。軍人。元帥。参謀総長(1984-88)としてアメリカとの軍縮会議をソ連側から主導し、かつ、ゴルバチョーフの下で軍におけるペレストロイカを推進。しかし同時に軍事力の低下には強固に反対。参謀総長解任(辞任?)も軍備を巡る対立かららしいが、その後もゴルバチョーフのアドバイザーとしてとどまっている。その一方で、連邦の解体には反対。八月クーデタにはかかわらなかったが、その失敗後、自殺。
アベル ルドルフ
1902-71。スパイ。第二次大戦後、アメリカで広範なスパイ・ネットワークをつくりあげ、«戦後最も成功したスパイ» とも呼ばれる。1957年にFBIに逮捕されるが、1962年、U2型機飛行士のパワーズと交換でソ連に帰国した。
アラシュ・オルダ
十月革命後のカザフスターンにおいて、イスラームの近代化を目指すジャディード主義者たちが創設した自治政府であり、これを組織した民族政党。当初は反ボリシェヴィキーで、白衛軍と協力するが、その後ボリシェヴィキーに下る。1920年、解体。バイトゥルシヌリやボケイハンなど、その指導者たちはその後も新政権で活動を続けたが、スターリン時代に民族主義の咎で粛清に消えた。
アリエフ ゲイダル
1923-2003。政治家。アゼルバイジャンKGB議長(1967-69)、アゼルバイジャン第一書記(1969-82)として、汚職追求で名を挙げる。共産党政治局員候補(1976-82)。アンドローポフにより政治局員・第一副首相に任命され(1982-87)、ヴォロトニコーフとともに次期首相候補と呼ばれたこともある。ペレストロイカに慎重で、失脚。古巣ナヒチェヴァンで復活し、ソ連崩壊後にアゼルバイジャン大統領(1993-)。
アリルーエヴァ スヴェトラーナ
1926-2011。スターリンの娘。初恋の相手は20歳年長の妻子持ちのユダヤ人(スターリンにより強制収容所に送られた)。最初の夫もユダヤ人。次の夫はジュダーノフの息子。さらにインド人共産主義者と恋に落ちる。かれの葬儀を機に西側への出国が認められ、1966年、アメリカに亡命。その後さらに結婚し、最後はイギリスに渡った。
アリルーエヴァ ナデージュダ
1901-32。スターリンの妻。1918年に結婚した。スターリンに殺されたとも、自殺したとも言われる。
アルクスニス ヴィクトル
1950-。軍人。ヤーコフの孫。ペレストロイカ末期、議会内会派 «ソユーズ» を組織し、守旧派の中心人物として台頭。バカーティンやシェヴァルドナーゼの更迭、非常事態の導入を主張する。ただし八月クーデタにはかかわっていない。
アルクスニス ヤーコフ
1897-1938。軍人。革命直前にボリシェヴィキーとなり、赤軍結成直後に入隊。内戦中はラトヴィア人狙撃兵として活躍。空軍局長代理(1926-31)・空軍局長(1931-37)として、空軍の建設に携わった。粛清に消える。
アルテューヒナ アレクサンドラ
1889-1969。革命家。紡績労組や金属労組で活躍。革命後は女性労働者の組織化で活動した。共産党組織局員・書記候補(1926-30)。その後は紡績労組議長や紡績工場長を歴任した。
«アルテョーム»(セルゲーエフ フョードル)
1883-1921。革命家。革命前からハリコフ(東ウクライナ)で活躍し、革命後内戦の続くウクライナで、ボリシェヴィキーの牙城を守った。その後モスクワ共産党書記や炭鉱労組議長などを歴任。キーロフやスターリンの親友で、遺児はスターリンに引き取られ養育された。
アルバートフ ゲオルギー
1923-2010。歴史学者。ムギモ卒。1964年にアンドローポフのブレーンとなる。アンドローポフがKGBに移ると、科学アカデミーのアメリカ・カナダ研究所所長(1967-95)。ブレージュネフ時代以降この研究所は対外政策のシンクタンクとなり、アルバートフも歴代書記長のブレーンとして活躍した。ただし新思考外交が進展するにつれ、影響力は薄れていった。
アルヒポフ イワン
1907-98。政治家。技師出身で、工業畑のテクノクラート。新中国建国後は技術顧問の中心人物だった。副首相(1974-80)、第一副首相(1980-85)。ゴルバチョーフにより解任されたが、その後も対中経済関係に影響力を持った。
アルマ・アタ暴動
1986年、20年にわたってカザフスターン共産党第一書記だったクナーエフが解任された。それだけなら何の問題もなかったかもしれないが、後任としてゴルバチョーフが任命したのがロシア人のコルビンだったため、学生を中心としてアルマ・アタ市民が暴動を起こす。
アルマンド イネッサ
1874-1920。革命家。1909年、亡命先でレーニンと出会い、その愛人となる(ただし明確な証拠はない)。第一次大戦に反対し、ツィンメルヴァルトやキーンタールにも参加。封印列車でレーニンやクループスカヤとともに帰国。ブレスト・リトフスク講和には反対。婦人の権利拡大や女性党員の拡大などを積極的に推進した。
アレクサンドル1世
1777-1825。皇帝(1801-25)。«玉座の上のハムレット»。自由主義改革と強権的専制政治との間を終生揺れ動いた。ナポレオン戦争を通じてロシアを «五大国» のひとつに押し上げた。
アレクサンドル2世
1818-81。皇帝(1855-81)。«解放帝»。クリミア戦争の後始末を経て農奴解放を実施。さらに司法、地方制度、教育などさまざまな分野での改革を推進した。しかしすべてが «上からの改革» でしかなく、本質的に保守主義者だったアレクサンドル2世は «下からの改革» を受け入れるつもりはなく、そのためナロードニキ運動や社会主義などを地下に追いやり、自身テロに倒れた。
アレクサンドル3世
1845-94。皇帝(1881-94)。その治世は保守反動の時代。同時に親独から反独へと外交路線が180度旋回した時期でもある。
アレクサンドル・ネフスキー
1220?-63。ヴラディーミル大公(1252-63)。ノーヴゴロド公として、1240年にネヴァ河畔の戦いでスウェーデン軍を、1242年にチュード湖上(氷上)の戦いでドイツ騎士団を撃退した。そのため、特にスターリンによって «救国の英雄» 扱いされた。もっともすでに死の直後からかれの神格化は始まっており、現在にいたるまでロシア史上最高の偉人とみなされている。
アレクサンドロフ イワン
1875-1936。電気技術者。ゴエルロ計画の作成者のひとり。ゴスプランの幹部であり、ドニェプル・ダムの建設にも従事。中央アジアの電化政策を推進する。西側の先端技術の導入を主張し、粛清に消えた。
アレクサンドロフ=アゲントフ アンドレイ
1918-93。外交官。ブレージュネフからゴルバチョーフにいたる歴代書記長の補佐官。外相であったグロムィコ(のちに政治局員)や共産党国際部長ポノマリョーフ(書記、政治局員候補になった)が光だとすれば、かれは完全な黒子。しかも直接的に政策決定にはかかわれなかったものの、歴代書記長に対する影響力は無視し得ない。
アレクシー1世
1877-1970。モスクワ総主教(1944-70)。大粛清では一時中央アジアに流される。レニングラード攻囲戦では、レニングラード府主教であったアレクシーもドイツ軍に攻囲されたレニングラードにとどまり、信者たちを鼓舞した。1943年、モスクワ府主教セルギー、ウクライナ・ベロルシア府主教ニコライとともにスターリンと会見し、ソ連政府に対する忠誠と引き換えに総主教座復活を許可される。セルギー死後の1944年、総主教に。その後はスターリンとの約束を守り、ソ連政府の方針に忠実に従った。
アレクシンスキー グリゴリー
1879-1967。革命家。モスクワ大学で学生の革命組織を結成したが、そのメンバーにはカーメネフやツェレテリもいた。その後はボリシェヴィークとなり、第二ドゥーマ議員。しかし第三ドゥーマのボイコットを主張し、それが通らないとなると «最後通牒主義者» となって、レーニンと決裂。«フペリョード・グループ» を創設し、ボグダーノフやルナチャルスキーの離脱後もマヌイリスキーとともにこれを指揮した。第一次大戦では祖国防衛を主張。十月革命後は亡命した。
アレクセイ
1629-76。ツァーリ(1645-76)。ニーコン改革、ステンカ・ラージンの乱、左岸ウクライナ併合。その治世は、近代化する以前の、古いロシアの伝統文化が最後に花開いた時期と考えられている。
アレクセイ・ペトローヴィチ
1690-1718。皇太子。ピョートル大帝の息子。父子間の関係は疎遠だったが、ピョートル大帝の近代化改革に反発する勢力がアレクセイの周囲に集まったため、父子の対立は政治的対立とからむことになった。ついにはドイツに亡命。しかし連れ戻され、投獄された。獄死(父の手により殺されたとも言われる)。
アレクセーエフ ミハイル
1857-1918。軍人。第一次大戦で参謀総長。臨時政府にも協力し、最高総司令官として第一次大戦の継続を指導した。コルニーロフの叛乱を鎮圧する。十月革命後は南方に逃亡し、義勇軍の核をつくりあげた。
アンヴェリト ヤン
1884-1937。革命家。エストニア人。ボリシェヴィークとして、早くからエストニアでの革命運動で中心的な役割を果たす。十月革命後にエストニア革命政府を指揮したが、失敗。その後地下に潜ってエストニア共産党を指導した。粛清に消える。
アンティカイネン トイヴォ
1898-1941。革命家。フィンランド人。若くしてフィンランドでの革命運動に従事。十月革命後のフィンランド共産党創設にも参加し、その後も地下やソ連でフィンランド共産党を指導。1934年にフィンランドで逮捕されるが、釈放されソ連へ。冬戦争でカレリアでパルチザンを組織し、戦死。
アントーニー
1863-1936。キエフ府主教(1917-)。帝政改革と教会自治を主張するが、思想的にはスラヴ主義者で政治的には反動的な君主主義者。のちの総主教セルギーと並ぶ理論家として知られる。1918年の総主教選挙で、単純得票数では勝利するものの、最終的にモスクワ府主教ティーホンに敗れる。内戦が始まると、白衛軍を支持し、亡命。在外ロシア正教会を組織。その個人的権威で多くの正教会から半公式的に承認を受ける。
アントノフ アレクサンドル
1885-1922。革命家。エスエル。十月革命後、郷里タンボーフで民警を組織。ボリシェヴィキーの食料調達政策に反発し、農民を率いて蜂起。«アントーノフ軍» は一時期は5万人を数えた。しかしトゥハチェフスキーとウボレーヴィチ率いる赤軍により蜂起は鎮圧された。
アントノフ アレクセイ
1896-1962。軍人。一貫して参謀畑を歩んだ。第二次大戦では、各戦線軍で参謀長を務めた後、ヴァシレーフスキーに中央に呼ばれ、実質的な作戦立案の中心人物となる(スターリンの趣味で、ヴァシレーフスキーはしばしば前線に派遣されていた)。ヤルタ会談やポツダム会談では軍のスポークスマン役も務める。しかしスターリンに嫌われ、戦後は左遷された。
アントノフ=オフセエンコ ヴラディーミル
1883-1938。革命家。エスエルからメニシェヴィークに。二月革命後はメジュライオンカを経てボリシェヴィキーに合流。十月革命では、ポドヴォイスキーやラシェーヴィチとともに冬宮襲撃と臨時政府逮捕を計画、実行した。内戦では基本的にウクライナ赤軍を指導。しかしトロツキー派として、レーニン死後は外交畑にまわされた。スペイン内戦では共和国軍を積極的に支援する。粛清された。
アントノフの乱
ボリシェヴィキーの食料調達政策に反発したタンボーフ県の農民が、1920年に起こした叛乱。指導者のひとりアレクサンドル・アントーノフの名をとってアントーノフの乱と呼ばれるが、実際の指導者は、帝国軍人でタンボーフで反共パルチザンを組織していたピョートル・トクマコーフ。ボリシェヴィキーはトゥハチェフスキーを派遣し、1921年にこれを鎮圧した。
アンドレイ・ボゴリュブスキー
1110?-75。ヴラディーミル大公(1155-75)。アレクサンドル・ネフスキーの大伯父。ユーリー・ドルゴルーキーの息子で、その後を継いだ。わかりやすく言えば、«キエフ大公国からヴラディーミル大公国を独立させた» ということになろうか。このヴラディーミル大公国がのちのロシアの核となるので、その意味ではアンドレイ・ボゴリューブスキーがロシア建国の父と言うことも可能だろう。
アンドレーエヴァ ニーナ
1938-。化学者。レニングラード技術大学の教員。1988年、『ソヴィエツカヤ・ロシヤ』紙にペレストロイカに反対する論文を発表し、一躍守旧派の寵児となった。
アンドレーエフ アンドレイ
1895-1971。政治家。鉄道労組の指導者として台頭。スターリン派。共産党政治局員(1932-52)。大粛清期から農政にまわされたが、第二次大戦後の農業再建に失敗し、失脚した。スターリン時代に失脚しながら生き永らえた唯一の政治局員(ほかはすべて殺された)。ちなみにフルネームはアンドレイ・アンドレーエヴィチ・アンドレーエフ(冗談でなくマジ)。
アンドロポフ ユーリー
1914-84。ソ連の最高指導者(1982-84)。ハンガリー駐在大使(1954-57)としてハンガリー動乱の後始末を現地で指揮。КГБ 長官(1967-82)としてならず者の集団をエリート・スパイ組織に変えた。共産党政治局員(1973-84)。秘密警察長官在職中に政治局員となった最初(スターリン死後の一瞬ベリヤが政治局員でありながら秘密警察長官を兼務した)。ブレージュネフ死後に共産党書記長となり、停滞したソ連社会を再建しようと «ウスカレーニエ(加速)» 政策を推進(しようと)したが、志半ばで死去。ゴルバチョーフを引き立てた。

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最終更新日 23 02 2013

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