古儀式派

17世紀半ばのニーコン総主教主導による宗教改革に反発し、ロシア正教会から離脱した人々を «古儀式派 старообрядцы» と呼ぶ。
 ニーコンの改革は、当時のロシア正教会がロシア独自の典礼(儀式)を種々取り入れていたため、他のオルトドクス(ギリシャ正教)諸教会と同じ典礼を導入したものである。古儀式派が反発したのはこの «新しい» 典礼であり、古来の(とかれらに思われた)典礼に固執したために古儀式派と呼ばれる。
 かつては «分離派 раскольники» と呼ばれていたが、これは価値判断を伴う言葉(«正統派» から分離した人々)であるため、こんにちでは使われない。また «古信仰派 староверы» という名称もあるが、«ニーコン派正教会» に対して古いのはかれらの信仰(教義)ではなく儀式(形式)であるため、誤解を招きかねない名称と言うべきだろう。ちなみに、かれら自身は普通に «キリスト教徒» を名乗っている。

 ニーコンの改革は、他のオルトドクス諸教会から承認されたもので、ロシア正教会に属する多くの聖職者(特にほとんどの高位聖職者)の賛同を得た。古い典礼に固執して正教会から離脱し、古儀式派となった聖職者もいたが、決して数は多くなかった。しかも古儀式派は聖職者養成機関も、聖職者を叙任する権威も持たなかったため、当初正教会を離脱した聖職者が死ぬにつれて聖職者が少なくなっていった。新たな聖職者をどうするかが、17世紀末以降の古儀式派にとっては死活問題となっていた。
 ニーコン改革によりニーコン派正教会と古儀式派とが分裂した後に、ニーコン派正教会から離脱してきた聖職者もいた。しかし古儀式派内部には、これらの逃亡聖職者を受け入れるか否かで対立が生じた。かりにも一旦はニーコン改革を受け入れた聖職者、ニーコン改革を支持する正教会により叙任された聖職者は受け入れられない、とする立場があって、これにより古儀式派は大きく逃亡聖職者容認派と拒否派とに分裂したのである。前者をポポーフツィ、後者をベスポポーフツィと呼ぶ。

 古儀式派は伝統的にヴォルガ流域に多いが、シベリア・極東にも多くの古儀式派がいる。絶対数からするとヴォルガ流域の方が圧倒的に多いが、人口比率からするとシベリア・極東の方がはるかに高い(1897年にアムール県では10人に1人が古儀式派だった)。また、かつてロシア帝国の支配下にあったベラルーシやウクライナなどの正教国家のみならず、ポーランドやバルト三国などのカトリック国家、プロテスタント国家にも、少数ながら古儀式派は存在している。
 厳密な統計数字は存在しないものの、こんにち、ロシアに古儀式派は 200万人以上が存在すると考えられている(それでも人口比率からすると 2% にも満たない)。民族的にはロシア人が圧倒的だが、ウクライナ人、ベラルーシ人をはじめ、カレリア人、フィンランド人、チュヴァシュ人、ウドムルト人などの少数民族も含まれる。ちなみに、1897年の国勢調査では、古儀式派は220万人であった。ウクライナやバルト三国の独立などの減り分を考慮しても、過去100年間であまり増えていないということになる。
 最大勢力はロシア古儀式派正教会で、ロシアに250の教区と100万の信徒を擁し、またルーマニアにも20万の信徒がいるとされる。ポモーリエ古正教会が、数え方にもよるが、ロシアに数十万、旧ソ連諸国にもまた数十万がいると考えられ、総数はロシア古儀式派正教会を凌駕するかもしれない。ロシア古正教会も100万近い信徒を抱えるとされるが、教区数はロシア古儀式派正教会の3分の1にも満たない。その他はせいぜい1万、多くはそれ以下の少数派で、教会組織も存在しないため、実態の把握ができていないのが現状である。ほとんどの宗派が死滅していると思われるが、それも確かではない。

 なお、民族的な見地からロシア人のサブグループとされるカーメンシチキ、ケルジャキー、セメイスキエ、ポリャキー、リポヴァーネなどは、古儀式派としてのアイデンティティに基づいた集団である。

ポポーフツィ поповцы

 ニーコン派正教会から離脱してきた聖職者の受け入れを容認したのがポポーフツィである。大きくは4つのグループに分けられる。
 第一は、18世紀末にニーコン派正教会との «妥協» に達し、ニーコン派正教会に所属するようになった «エディノヴェールツィ»。第二は、19世紀半ばにアムヴローシイの権威を認め、その叙任した聖職者を受け入れて独自の正教会組織を樹立した «ロシア古儀式派正教会»。第三は、ロシア革命時の教会改革の流れの中で聖職者を獲得し、独自の正教会組織を樹立した «ロシア古正教会»。第四に、このいずれにも属さず、結果的にベスポポーフツィと同じく聖職者を持たない道を歩んだ諸派がある。こんにちも残存するものとしては、ルシュコーフ派、チャソーヴニャ派がある。

エディノヴェールツィ единоверцы

 古儀式派は、本来的には聖職者が必要だと考えていた。ただニーコン派正教会から離脱してきた聖職者を受け入れる以外に、自分たちで聖職者を養成し叙任するすべを持たなかったのである。他方、ニーコン派正教会の中には、古儀式派も同じ正教徒として、古儀式派の主張に多少の譲歩をしても教会組織の下に取り込んでいこうとする者もいた。このような双方の思惑、事情がうまくかみ合って成立したのがエディノヴェーリエである。語義的には «エディノヴェーリエ» とは、«ひとつの信仰» を意味する。
 18世紀末、チェルニーゴフ県に住む古儀式派の修道士ニコディームは、ルミャーンツェフ元帥の勧めに従い、聖職者を持たない自分たちの苦悩をサンクト・ペテルブルグに訴えた。この結果、ニコディームとその同志たちは、女帝エカテリーナの赦しを得て、正教会に帰参した。正教会に帰参したとは言え、ニコディームたちはその古儀式を完全に棄てたわけではない。一部は正教会の «新儀式» を受け入れつつ、他方で正教会の側もニコディーム等の固持する一部の古儀式を容認して、この統一が成立した。しかもニコディームたちは、宗務院直属の主教を得た。その後このような動きはチェルニーゴフ県から周辺へと徐々に拡大していった。最終的に1800年に皇帝パーヴェルにより、古儀式派を正教会に受け入れる形式・条件が整えられた。

 1908年の時点で、44万のエディノヴェールツィがいたとされる。こんにちでもエディノヴェーリエは、割合的には小さいものの、ロシア正教会の一部である。«ロシア正教会に属さない人々» という意味では、かれらはもはや古儀式派ではない。しかしかれらは正教会の中にあって、いまでもニーコン改革以前の古儀式を踏襲している。

ロシア古儀礼派正教会 Русская православная старообрядческая церковь

 正教会に合流したエディノヴェーリエを除くポポーフツィの間では、聖職者を叙任することのできる主教以上の高位聖職者を古儀式派に改宗させ、それにより聖職者の供給を確実にしようとする努力が続けられていた。しかし皇帝ニコライ1世の治世に古儀式派に対する弾圧が強化されると、ロシア国外の聖職者を古儀式派に改宗させるべきだとの考えが強まった。
 1846年、元ボスニア府主教アムヴローシイはオスマン帝国政府に追放され、ブコヴィナ地方のベーラヤ・クリニーツァ修道院に隠棲していた。古儀式派はかれを改宗させ、同時に修道士を聖職者として叙任させた。これによりベーラヤ・クリニーツァに古儀式派のヒエラルキーが成立した。1853年にはモスクワに大主教座が設けられ、ベーラヤ・クリニーツァのヒエラルキーによって古儀式派の正教会組織がロシア国内にも拡大していった。
 こうして成立したのがロシア古儀式派正教会である。

 ロシア古儀式派正教会は、こんにち、100万信徒を抱えるとされる。1988年にはロシア洗礼1000年を記念して、モスクワ大主教は府主教を名乗るようになった(ちなみに «ロシア古儀式派正教会» という名称もこの時から)。全世界の正教会組織の中で孤立した存在である。

 ロシア古儀式派正教会の淵源は、「ロシア国外に聖職者を」との考えであったから、ロシア国内に教会組織が確立された後も、ブコヴィナの組織が存続した。その後ベーラヤ・クリニーツァが1940年にソ連に併合されると、ブコヴィナの教会組織はルーマニアに亡命。本拠地をブライラに置いて活動を継続している。一般的には «在ルーマニア・ロシア古儀式派正教会» と呼ばれている。ルーマニアに在住するロシア系ルーマニア人20万の信徒を抱えると推定されている。

ベグロポポーフツィ беглопоповцы

 ベーラヤ・クリニーツァのヒエラルキーの権威を認めず、依然としてニーコン派正教会からの逃亡聖職者を受け入れることで独自の教会組織を維持した人々を、ベグロポポーフツィ(逃亡聖職者派)と呼んだ。
 ロシア革命後、ロシア古正教会が成立したことで、ベグロポポーフツィはほとんど消滅した。上述のように、ルシュコーフ派やチャソーヴニャ派がわずかに残るだけである。これらは結果として聖職者を持たなかったため、事実上ベスポポーフツィとして扱われている。実際、聖職者を持たない期間が長かったため、ポポーフツィとしての起源を忘れて聖職者否定の立場に変わっているものもある。
 ちなみにチャソーヴニャ派のルィコフ一家は、1930年代にソ連権力から逃れてハカーシヤのタイガに移り住み、以後1978年に地理学者によって «発見» されるまで世界から切り離されて家族だけで生きていたことで知られている。

ロシア古正教会 Русская древлеправославная церковь

 ロシア革命は、ロシア正教会にとっても革命の時期であった。宗務院が廃止されて総主教座が復活したのみならず、教会のあり方を刷新しようとする革新派の聖職者たちが声を上げ、正教会内部が大きく揺れた時期でもある。
 1923年、革新派のひとり、サラートフ大主教ニコライが古儀式派に改宗。自前の聖職者を持たなかったベグロポポーフツィがその下に結集し、ロシア古正教会が成立した。

 こんにち、ロシア古正教会に所属する信徒は100万を数えるとする説もあるが、おそらく実数はそれよりはるかに少ないものと思われる(100万信徒を抱えるロシア古儀式派正教会が250以上の教区を擁するのに対して、ロシア古正教会の教区数は70でしかない)。2002年にはそのトップが総主教を名乗った。
 ロシア古儀式派正教会と同様、全世界の正教会組織の中で孤立した存在である。ちなみに、ロシア古正教会とロシア古儀式正教会は、互いに相手を否認している。

ベスポポーフツィ беспоповцы

 ベスポポーフツィは、決して本来聖職者の意義を否定するものではない。逃亡聖職者の受け入れを拒否した結果、やむなく聖職者のない組織をつくらざるを得なかっただけである。しかし逃亡聖職者の受け入れを拒否し、やがて実際に聖職者を持たなくなったため、もともとニーコン改革以前からロシア人の間にあった反教会組織の気分がベスポポーフツィに広がった。
 組織論的にはベスポポーフツィは、俗人(長老)が聖職者の職務を代行するか、«生けるキリスト» を仰ぐか、教会的な組織を否定するかのいずれかに分裂していった。俗人による聖務代行を認めたのがポモールツィであり、«生けるキリスト(神)» を仰いだのがフルィストィーであり、教会組織を否定したのがネートフツィである。

 聖職者がいないということは、教会組織が存在しないということである。これすなわち、洗礼、聖体拝領、塗油式、告解、結婚などを含めた教会の秘蹟が行えないということになる。このためベスポポーフツィの中でも特にフルィストィーとネートフツィ(とそれらの分派)は、これらについて独自の見解を形成していく。それどころか教義面でも独自の考えを持つ宗派もあった。
 古儀式派は、その名の通り、ニーコン派正教会との相違点としてあくまでも «古来の儀式» に固執した点がある。すなわち、オルトドクス(ギリシャ正教)としての教義の面では、ニーコン派正教会やその他のオルトドクス諸教会と何ら違いはないはずである。ところがベスポポーフツィの中には、聖職者のいない信仰生活を送る中で、やがて独自の教義を生み出していった宗派がある。ドゥホボールィのように聖書やイエスの聖性といったキリスト教の根幹にかかわる部分すら否定する分派も出現している。
 これには、古来キリスト教に内在した様々な思想や西欧プロテスタント諸派の思想、ロシア独特のキリスト教観などが影響している。このため、ドゥホボールィやモロカーネは、少なくともその思想的な淵源を、ニーコン改革以前にまで遡ることができる。あるいは、厳密にはこれらは古儀式派と区別すべきかもしれないが、古儀式派に含める通例にならった。

 ちなみに、古儀式派は基本的にピョートル大帝を «アンチ・キリスト» と呼んで忌み嫌ったが、これはピョートル改革に対する反発と同時に(古儀式派は教会儀式だけではなく生活習慣面でも保守的だった)、ピョートル大帝が古儀式派への本格的な弾圧を行ったこととも関連していると思われる。
 ピョートル改革を引き継いだ女帝エカテリーナ2世は、逆に、古儀式派には寛大であった。ポポーフツィのうちエディノヴェールツィが正教会に帰参したのもその表れであろう。ピョートル改革の結果近代化社会が定着していくにつれ、古儀式派の反ピョートル的感情も薄れていった。

 ピョートル大帝を «アンチ・キリスト» と断じた古儀式派にとって、世界はアンチ・キリストが支配する世界であった。ピョートル大帝の死後もその考えは生き残った。帝国政府が、アンチ・キリストたるニーコンの改革を奉じたロシア正教会と結びついていたためである。
 このため古儀式派は反国家的になり、同時にその世界観には終末思想が色濃く反映されることになった。

ポモーリエ古正教会 Древлеправославная поморская церковь

 ニーコンの宗教改革に反発してソロフキー修道院が叛乱を起こしたが、そのソロフキー修道院のあるソロフキー諸島(世界遺産)のすぐ対岸一帯がここで言う «ポモーリエ» である(現カレリア共和国)。この地域のベスポポーフツィは、ソロフキー修道院規則に倣った規則をつくり、俗人に儀式を執り行わせるようになった。特に1694年にヴィゴフスキイ修道院が建てられ、この一派の精神的中心となったため、この一派に属する人々を «ポモールツィ поморцы» と呼ぶ。
 ポモールツィは元来は、ソロフキー修道院を攻撃した国家に敵対的であったが、やがて軌道修正し、1737年には皇帝のための祈祷を公式に開始。これに反発する人々が離脱していった。
 またポモールツィは、俗人に儀式を執り行わせていたとはいえ、しょせん高位聖職者がいない以上、結婚などの一部儀式はおこなえない。このためポモールツィは元来結婚を否定していた(と言うより、結婚したくてもできなかった)。しかし1830年代になると、俗人による結婚の儀を肯定する «新ポモールツィ» が登場。依然として俗人が男女を結びつけることを否定する «古ポモールツィ» とに、ポモールツィは分裂した。しかし逆にこれにより、結婚を否定する他のベスポポーフツィから新ポモールツィに «改宗» する者が多かったという。なお、現在では新ポモールツィが古ポモールツィを圧倒している。

 ポモールツィは、1905年の信仰の自由に関する勅令発布を受けて、俗人による教会組織 «ポモーリエ古正教会» を正式に発足させた。ロシア革命による帝国の崩壊、ソ連の崩壊による諸共和国の独立により、ポモーリエ古正教会はロシア以外の周辺諸国にも存在している。ベラルーシとウクライナだけでなく、リトアニアとラトヴィアでも多くの信徒を抱える。
 «教会» とは言っても高位聖職者を持たず、種々の儀式は俗人が執り行う。ヒエラルキーは存在せず、ゆえに各地の信徒とその共同体は独自に存立し、中央統一組織によって集権的に組織されているわけではない。
 ロシア国内のポモーリエ古正教会の中央機関として、2001年にサンクト・ペテルブルグにポモーリエ古正教会統一評議会が設置された。こんにち信徒は、ロシア国内だけでも数十万人(100万人近く?)にのぼると推測される。このほかに、ラトヴィアとリトアニアにも数十万、その他の旧ソ連諸国(主にウクライナとベラルーシ)にも数十万がいるとされる。

フィリップ派 филипповское согласие (フィリッポフツィ филипповцы)

 1737年、ポモールツィは皇帝のための祈祷を公式に開始。これに反発した長老フィリップがポモールツィから分離し、フィリップ派が誕生した。当然皇帝や帝国政府に対して強硬に(狂信的に)反発し、«異端» の政府が支配する世俗とかかわらないことを主張していたが、それも18世紀の特に後半には薄れていった。皇帝のための祈祷すら始め、その存在意義は失われた。この頃、フィリップ派からアーロン派、パストゥーフ派、ベグヌィーなどが分離している。

アーロン派 аароново согласие (アーロノフツィ аароновцы)

 18世紀後半にフィリップ派から分かれた。創設者はセミョーン・プロトポーポフというが、指導者のひとり、ヤロスラーヴリの町人アンドレイ・ジューコフが «アーロン» と呼ばれていたため、アーロン派と呼ばれるようになった。アルハーンゲリスク県を中心に広がったが、ある資料によれば19世紀末には消滅していた。もっとも、1970年代まで存在したとの説もある。

 皇帝のための祈祷に反発してフィリップ派から分離したが、フィリップ派より反社会的な性格が薄く、俗人により執り行われる結婚も容認していた。ただし新ポモールツィと異なり、ロシア正教会による結婚は否認する。

ベグヌィー бегуны

 ベグヌィーとは «走る人(ランナー)» という意味。古くは «逃亡者» という意味もあった。«俗世からの逃亡者» という意味で、厳密には家をも棄てて放浪することを主張したため、«ストラーンニキ странники (放浪する人)» とも呼ばれる。

 18世紀末、女帝エカテリーナ2世の下で古儀式派に対する弾圧が弱まると、帝国政府との協調路線を選ぶ古儀式派があった。これに反発したモスクワ在住のフィリップ派エヴフィーミイが、アンチ・キリストの支配する国家と完全に手を切るため、世俗からの «逃亡» を主張。自ら森の中に «逃亡» し、自らを洗礼し、イコンの作成や著作に励んだ。
 エヴフィーミイの死後、«世俗を棄てる» という点に関し、ベグヌィーは分裂。在宅の者(つまり現実には世俗を棄てていない者)をも受け入れる一派が勢力を拡大していった一方で、家を棄てて放浪する(つまり厳密に世俗を棄てる)ことを主張する一派は、その生活形態からしてロシア各地に広がっていった。このため、多くの古儀式派が地理的には大なり小なり限定されているのに対して、ベグヌィーは西はサンクト・ペテルブルグから東はシベリアの奥地にまで及んでいる。とはいえ、エヴフィーミイがその生涯を送ったヤロスラーヴリ県を中心として北東ロシアが主要な勢力圏であった。
 19世紀初頭には、ベグヌィーは金銭とも無縁であるべきだ、との主張が生まれ、これが一定の支持を得た(ベズデーネジュニキ безденежники)。
 19世紀半ばには、ニキータ・セミョーノフ(キセリョーフ)という長老が、長老たちによる教会組織をつくることを主張し、自ら «総主教» の地位に就いた。この «教会組織» はソ連時代まで存続した(スタテイニキ статейники)。
 本来ベグヌィーは世俗から離れた «修道士» であり、よって厳格な禁欲主義を護るべきであると考えられていたが、同じく19世紀半ばに、相互の合意の下に結婚を認めるべきだとする一派が生まれ、分裂した(ブラーチヌィエ・ストラーンニキ брачные странники)。
 19世紀後半には、ニーコン派の «新儀式» のみならず、古儀式をも含めたあらゆる儀式を否定し、十字を切ることも十字架を携行することも否定する一派がペルミ県に発生。大部分がシベリアに逃亡し、こんにちでも東シベリアに残存していると見られる(ネプラテーリシチキ неплательщики)。

 帝国政府を否定したのみならず、納税も軍役も含めたあらゆる国家的・世俗的活動を否定した点で、その思想はドゥホボールィやモロカーネと通じる。また終末思想が特に顕著でもあった。

フェドセーエフツィ федосеевцы

 1700年頃、ノーヴゴロド近郊で補祭を務めていたフェオドーシイ(フェドセーイ)を指導者として発生。アンチキリストの支配する正教会を否定し、教会の秘蹟は俗人が代行するという点で、ポモールツィとその考えを共有していた。しかし1706年には早くも関係を絶った。フェドセーエフツィの特徴は、その禁欲主義と国家否定である。特にポモールツィが皇帝のための祈祷をおこなうようになると、フェドセーエフツィのそれに対する反発は強かった。
 18世紀末からは、産業革命の波の中にもまれた地方出身者の心を捉え、フェドセーエフツィは古儀式派の最大勢力となった。代々モスクワの大商人・大工場主がその指導者となっている。しかしこのような勢力拡大に伴い、地域的、階級的格差が内部分裂を生んだ。禁欲主義の徹底を主張する人々からアーリストフツィなどの分派が発生し、結婚に惹かれる人々がポモールツィ(新ポモールツィ)に加わり、さらに一部がエディノヴェールツィとして正教会に帰参している。ついには、かつて断固拒否した皇帝のための祈祷をも行うようになった。こうして19世紀後半には、フェドセーエフツィはかつて有していた «社会的プロテスト» という側面を失い弱体化したが、こんにちでもモスクワなどに存在している。

アーリストフツィ аристовцы

 19世紀初頭、サンクト・ペテルブルグの商人ヴァシーリイ・アーリストフによって創設された古儀礼派の宗派。フェドセーエフツィから派生したものとされる。ただし結婚を肯定。かつての禁欲主義を失いつつあったフェドセーエフツィに対する反発から、厳格な禁欲主義を主張した。

フルィストィー хлысты

 日本では «鞭身派» と訳されることが多い。フルィストィーとは、そもそも «しなやかな革鞭» という意味の普通名詞である。

 フルィストィー自身の伝承によれば、1645年にコストロマーの農民ダニーラ・フィリッポヴィチのもとに主が顕現したことがフルィストィーの源流となっている。以後、その弟子たちに代々 «キリスト» の地位が受け継がれ、同時にその傍らに «聖母» が登場する。2代目の «聖母» がアクーリナ・イヴァーノヴナである。
 やがてフルィストィーが増えていくにつれ、各地に共同体(«船»)がつくられていき、それぞれの «船» にそれぞれの «キリスト» と «聖母» が選ばれるようになる。しかし «キリスト» や «聖母» が複数存在するのはおかしな話で、やがてこの世に «キリスト» も «聖母» もただひとりであると主張し、我こそその唯一の «キリスト» であると自認する者が各地に登場していく。こうして、結果としてフルィストィーから分離したのが1770年代のスコプツィー、19世紀初頭のポーストニキである。
 こんにちでも、タンボーフ州、サマーラ州、オレンブルグ州、北カフカーズなどに存在していると言われる。

スコプツィー скопцы

 スコプツィーとは普通名詞で «去勢された人» という程度の意味だが、古儀式派の一派としては、一般的に «去勢派» と訳される宗派を指す。諸悪の根源である肉欲を根絶するために去勢を励行。江川卓によれば、ドストエーフスキイの長編『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』で重要な役割を果たしている。
 もともとは18世紀後半に、アクーリナ・イヴァーノヴナの «船» を離脱した逃亡農奴セリヴァーノフがフルィストィーの分派として始めたもの。19世紀後半には信徒数は 6 000人とも 100 000人とも言われ、農民のみならず貴族、軍人、官吏などをも巻き込み、タンボーフ県、オリョール県やシベリアに広がっていた。
 こんにちでは北カフカーズに小さな共同体が残るだけとなっている。ただしかれらはもはや去勢は行っていない。

ポーストニキ постники

 19世紀初頭、«生けるキリスト» を名乗ったタンボーフ県の農民コプィロフにより、フルィストィーから分離。各 «船» ごとに «生けるキリスト» を認めたフルィストィーと異なり、ポーストニキはこの世に «生けるキリスト» はただひとり、コプィロフだけだと主張した。しかし1838年にコプィロフが死ぬと、当然のごとく空中分解。自らを唯一の «生けるキリスト(神)» と自称する弟子たちによって、多くの分派に分裂していった。

 ちなみにポーストニキとは、«精進を守る人» の意。

旧イスラエル Старый Израиль

 1830年代に発生し、フルィストィーの流れを汲む。フルィストィーとの違いは、結婚の容認である。
 コプィロフの死後、ポーストニキのカタソーノフが独自のグループを結成。地上に神の王国を創るべく «選ばれた民» を自認し、1880年代には 500 000人にまで膨れ上がった。しかしカタソーノフの死後、新イスラエルが分離。1906年に両派の統合が試みられたが失敗。その後旧イスラエルは衰退していった。おそらくこんにちでは消滅しているものと思われる。

ルブコーフツィ лубковцы (新イスラエル Новый Израиль)

 1891年に、«生ける神» を名乗ったヴォローネジュ県の農民ルブコーフによって旧イスラエルから分裂。ロストーフ=ナ=ドヌーを中心とした南ロシアに広がる。
 1913年に約2 000人がルブコーフに率いられてウルグアイに移住。しかしウルグアイにおける «新イスラエル» の建設は失敗し、1920年代にルブコーフはソ連に帰国。ソ連のルブコーフツィはスターリン時代に、ウルグアイのルブコーフツィも軍政時代(1973-85)に弾圧され、ルブコーフツィはほぼ消えた。

ネートフツィ нетовцы

 17世紀末にヴォルガ中流域に発生した。ポモールツィやその流れ(フィリッポフツィやフェドセーエフツィ)とは無関係。聖職者のいない中、教会の秘蹟を俗人信徒が代行することにしたのがポモールツィであるが、ネートフツィは教会の秘蹟そのものを否定した。教会の秘蹟に «NO(ネート)» と言ったからネートフツィ、というわけである。

サモクレシチェーンツィ самокрещенцы

 18世紀末、ネートフツィから派生。ヴォルガ中流域を中心に広がった。
 その名称通り、聖職者による洗礼を拒否し、自ら(サモ)自身の洗礼(クレシチェーニエ)を行うことを主張した。20世紀初頭にはニージュニイ・ノーヴゴロドに数千人がいたとされるが、こんにちでは消滅しているものと考えられる。

 正教会の聖職者たちがニーコン改革を受け入れたことで、もはや教会の秘蹟を執り行える者は存在せず、ゆえに教会の秘蹟そのものが存在しない、とするのがネートフツィの考えであった。しかし、洗礼はキリスト教徒としての証であり、ネートフツィも洗礼だけは否定することができなかった。このためかれらは、洗礼のみはニーコン派正教会の聖職者に頼らざるを得なかった。しかしニーコン派正教会はアンチキリストの巣窟であり、かれらから洗礼を受けることに抵抗を覚えるネートフツィも多かった。
 また、聖職者を持たないベスポポーフツィは、«長老» による指導に服していた。洗礼もまた、告解と同様、長老が執り行うこともあった。しかし対等なはずの俗人信徒間での洗礼に対する反発も大きかった。
 こういったことから、自分自身で自らの洗礼を行うサモクレシチェーンツィが誕生した。
 しかし時代を経るにつれ、やはり自身による洗礼は廃れていき、年長者、主に老婆(バーブシュカ)による若年者の洗礼へと変わっていった。このため «バーブシュカ派 бабушкино согласие» とも呼ばれる。

 結婚も認めるが、これも、聖職者も長老も認めないため、信徒たち自身で執り行っている。

 自らを洗礼する、というこの慣習は、ベグヌィーも取り入れている。

リャビーノフツィ лябиновцы

 サモクレシチェーンツィの分派。イコンへの礼拝を否定する珍しい宗派である。十字架をリャビーナ(ナナカマド)の木からつくることにこだわったことからこの呼び名がついた。18世紀後半に発生したと思われるが、知られるようになったのは1840年代以降。カザニ県から周辺のヴォルガ流域へと拡大していった。20世紀初頭には数万人が所属していた。こんにちでは死滅しているものと思われる。

 洗礼(ただし自分たちで)や結婚、さらには皇帝のための祈祷も認めた。

ドィルニキ дырники

 サモクレシチェーンツィからの分派で、リャビーノフツィと同様にイコンを否定する。代わりに東に向かって祈りを捧げる。その際、屋内では窓(オクナー)や、壁の穴(ドィラー)に向かうことから、ドィルニキ、別名オクノポクローンニキ окнопоклонники という呼び名がついた。イコンに対する思い入れの強いロシア人の間にあって、イコンを否定するドィルニキは多くの追随者を得ることができなかった。ヴォルガ流域から離れ、中部シベリアで広がった。こんにちでもコミ共和国に残存しているらしい。

スレードニキ средники

 1880年代にサモクレシチェーンツィから分かれた。タンボーフ県を中心に、アーストラハニ県、サラートフ県などに広がっている。なぜか日曜日ではなく水曜日(スレダー)を日曜日と見なしていた。

ドゥホボールィ духоборы

 もともとは «聖霊(ドゥフ)と戦う者(ボレーツ)» という意味で «ドゥホボレーツ» と呼ばれていたが、ドゥホボールィ自身が «聖霊とともに戦う者» という意味でドゥホボールィを自称するようになった。日本語では、単数形のドゥホボール、ないしドゥホボール派の方が一般的。
 本来は古儀式派の一派だったが、多くのドゥホボールィがロシア以外の国に住んでいるため、ロシア人のサブグループという民族的概念としてこの言葉が使われることもある。

 18世紀後半、エカテリノスラーフ県(現ウクライナ)の農民コレスニコフが開祖。古儀式派の中でも過激で、個々人の身内に神が宿るとの考えから、帝国政府や正教会を否定したのみならず、イコンも、聖書も、イエスの神性すらも否定。このような «異端» は古くからあり、ドゥホボールィの源流は18世紀以前に遡るとする者もある。
 皇帝アレクサンドル1世は、自身が神秘主義に染まっていたこともあり、ドゥホボールィに好意的で、かれらをクリミアに移住させる。しかしニコライ1世の治世にはザカフカージエへの移住が強制された。19世紀末にはドゥホボールィが一斉に武器を焼却。これに対して帝国政府が弾圧を加えると、レフ・トルストーイがドゥホボールィへの支援を世間に訴え、その結果、1898年から99年にかけて、8 000人のドゥホボールィがカナダに亡命した。

 こんにち、カナダに数万人のドゥホボールィが住む。かれらは宗教集団であると同時に民族集団でもあるが、古来の信仰を守り続けているのは 4 000人程度にとどまる。
 グルジアには、数百人が残るだけである。1980年代以降、多くがロシアかカナダに移住した。
 ロシアでは、グルジアからの移住者がトゥーラ州、ブリャンスク州、ロストーフ州などに数千人から数万人が住むと見られている。

モロカーネ молокане

 モロカーネとは «モロコー(牛乳)» から来た言葉であるのは確かだが、その由縁については諸説ある。日本語ではモロカーン、ないしモロカーン派と呼ばれるが、ロシア語の単数形はモロカーニン молоканин であり、モロカーンという名詞は存在しない(俗語としては存在する)。
 本来は古儀式派の一派だったが、多くのモロカーネがロシア以外の国に住んでいるため、ロシア人のサブグループという民族的概念としてこの言葉が使われることもある。

 起源は不明。教会組織を否定し、聖者を否定し、皇帝を否定し、武器と戦いを否定したが、このような考えは必ずしも目新しいものではなく、すでに16世紀にはモロカーネは存在していたとする者もある(実際似たような思想の異端が当時にもそれ以前にも存在した)。一方で、ドゥホボールィからの分派とする説もある。
 モロカーネがクローズアップされるようになるのは、古儀式派への弾圧が再び活発化するニコライ1世の治世である。この時代、モロカーネはドゥホボールィ同様、ザカフカージエや中央アジアに追放される。しかしモロカーネは勢力を拡大し(主にウクライナ)、19世紀末には 500 000人を数えたと言われる。こんにちでもスターヴロポリ地方やロストーフ州などのロシア南部から、ウクライナのザポロージエ州、アゼルバイジャンなどにモロカーネは存在している。
 これとは別に、多数のモロカーネがアメリカとメキシコに移住した。こんにちでも、アメリカでは数千人から数万人がモロカーネとしてのアイデンティティを維持していると言われる。

シャロプートィ шалопуты

 1860年代、«生ける神» を名乗ったタンボーフ県の農民カサトーノフが創始。フルィストィーの分派ともモロカーネの分派とも言われる。その特徴は、三位一体の否定であり、教会の秘蹟の否定である。洗礼すら否定。福音書には隠された意味があるとし、神は地上のすべてを満たしているとする。
 その後南ロシアからウクライナにかけて広がり、地域的に重なるモロカーネや、ロシア・プロテスタント内の神秘主義分派の影響を受けた。こんにちではその存在は確認されていない。

クルグル кулугуры

 18世紀以来、サラートフ県、サマーラ県、オレンブルグ県に広がっている。
 飲酒と喫煙を禁止したどころか、食器の使用も認めなかった。勤労を重視し、かなり集団主義的であったらしい。

リューブシュキノ派 любушкино согласие

 18世紀後半にトヴェーリにて発生。
 当時、聖職者を持たないベスポポーフツィでは結婚がおこなわれていなかった。リューブシュキノ派は、結婚という形式を伴わない男女の同居を認めるところから発生した。このため愛に最高の価値を置き、精進などの教会的な制約を否定する。
 しかし19世紀に入るとベスポポーフツィの間では、俗人による結婚の儀式を認める傾向が強まり、リューブシュキノ派の独自性は薄れていった。こんにちでは消滅しているものと見られる。

古儀式派以外の «異端»

霊的キリスト教 духовное христианство

 特定の宗派ではなく、ある傾向性を持つ宗派の総称。教会組織や、その執り行う儀式によってではなく、精神的(霊的)なつながりによって神と結びつこうとする考えが、霊的キリスト教の特徴である。このため、一般的に教会組織、さらには秘蹟をも否定する。教会組織を否定する以上、聖職者も修道士も存在せず、すべての信徒が神の前に平等だとする。ドゥホボールィやモロカーネを始め、フルィストィーとその分派、さらにはカタコンベ教会のフョードロフツィや、ロシア・プロテスタントの分派マリョーヴァンツィなども霊的キリスト教に数えられる。その思想的源流は、ニーコン改革より古く、ストリゴーリニキやジドーヴストヴユシチエといった «異端» にまで遡る。

ストリゴーリニキ стригольники

 14世紀のノーヴゴロドやプスコーフで生まれた。教会の階級や、聖職者の執り行う秘蹟を否定した。15世紀には死滅した。

ジドーヴストヴユシチエ жидовствующие

 ジドーヴストヴユシチエと一括りにされるが、実際にはふたつの潮流・思想であり、両者間の関係は立証されていない。
 «ジード жид» とはユダヤ人のこと。ジドーヴストヴユシチエとは、大雑把に、«ユダヤ人のすることをする人々» という程度の意味である。この名称は外部の人間(特に批判者)がつけたもので、かれらに «まるでユダヤ人のように» 見えたためにこう名づけられた。しかし実際は、最初のジドーヴストヴユシチエはユダヤ人ともユダヤ教とも無関係であった。

 最初のジドーヴストヴユシチエは、15世紀後半にノーヴゴロドで発生し、16世紀初頭には弾圧によって消え去った。単生論を主張して三位一体を否定。イエスの聖性を否定したところが «まるでユダヤ人のように» 見えたのだろうか。1500年頃にはイヴァン3世の後継者を巡る争いにからんで、モスクワ宮廷を大きく揺るがす存在であった。

 第二のジドーヴストヴユシチエは、これとは逆に、明確にユダヤ主義的傾向を帯びていた。とはいえその信徒はロシア人であり、ユダヤ人とは基本的に無関係である。18世紀末頃にタンボーフ県やヴォルガ下流域に広がり、20世紀まで存続した。かれらの大部分(?)がユダヤ人に同化した。«スッボートニキ» とも呼ばれる。

カタコンベ教会 катакомбная церковь

 1920年代、府主教セールギイを中心としたロシア正教会主流派が共産党権力に «屈服» すると、これに反発する聖職者・信徒は、あるいは国外に逃れて «在外ロシア正教会» を組織したが、国内に残った者が、地下に組織したのが «カタコンベ教会» である。1922年にヴォローネジュ県のフョードル・ルィバルキンが創始した «フョードロフツィ федоровцы» を嚆矢とし、特に1927年に府主教セールギイが «ソ連政府への忠誠» を信徒に訴えたことから、聖職者たちも反発。府主教イオーシフや、大主教のフョードルとアンドレイなどが、独自に «地下教会» を組織した。

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最終更新日 08 11 2011

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