スモレンスク公領
地図を見ると、スモレンスクはキエフ・ルーシの北の中心ノーヴゴロドと、南の中心キエフとを結ぶ線上のちょうど中間に位置する(厳密には若干東方にずれる)。実際スモレンスク公領は、純地理的にはキエフ・ルーシの中心に位置している。
北はノーヴゴロド共和国、西はポーロツク公領、東はロストーフ公領、南はチェルニーゴフ公領である。その領域には、バルト海に注ぐ西ドヴィナー、黒海に注ぐドニェプル、デスナー、ヴォルガ、オカーという、キエフ・ルーシの主要な河すべての上流域が含まれ、経済的にも地政学的にもキエフ・ルーシの心臓部と言っていいだろう。
現在の地図にあてはめてみると、ロシア連邦のスモレンスク州を中心に、モスクワ州の一部、トヴェーリ州の東部、さらにはベラルーシ共和国のモギリョーフ州の西部なども含んでいた。
この地域はバルト系の先住民を征服したクリヴィチー人の故地だが、882年にオレーグに征服されキエフ・ルーシの版図に入る。
11世紀までは、断続的に公が置かれたりもしたが、継続的な公領としての発展は見られなかった。それでも11世紀後半にはモノマーシチの «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» となる。スモレンスクが公領として確立するのは、12世紀前半。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを公として戴いてからである。
30年以上に及ぶロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの治世に、スモレンスク公領は周辺諸公領との国境線を画定し、クリヴィチー人を中心とした領内の諸部族の融合も進み、独自の主教座も置かれ、独自の公家を要する独立の公領となった。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ本人はさほど野心家ではなかったようだが、ムスティスラーフ偉大公の子として一族に擁立され、ヴォルィニ公やロストーフ公と協調しつつキエフ・ルーシ全土に大きな影響力を行使した。その子らは父からキエフ公領内に分領を与えられ、本領スモレンスクのみならず、キエフ公領、ノーヴゴロド、さらには西のポーロツク公領や東のロストーフ=スーズダリ公領にも大きな影響力を及ぼした。
スモレンスク公領(スモレンスク系一族)はキエフ・ルーシでも特異で、モンゴル襲来までに成立した分領はトローペツ、フォミンスク、ヴャージマだけである。それも、トローペツは勇敢公と幸運公のムスティスラーフ父子だけで消滅し、ヴャージマは成立の時期がはっきりしない(あるいはモンゴル襲来以後か?)。モンゴル襲来後も、フォミンスク分領公領がさらに細分化されたほかは、モジャイスク、セレホフ、ポルホフなどが一時的に分領となっただけである。
理由のひとつは、スモレンスク系一族が代々南ルーシを目指したためであろう。結局スモレンスクには足を踏み入れずに南ルーシで生涯を閉じたリューリク・ロスティスラーヴィチがその典型だが、一族の多くが同じようにスモレンスクを棄てて南ルーシに赴いている。
このように一族が大挙して南ルーシに押し寄せたため、キエフ大公位を巡る諸公間の争いでは、スモレンスク系一族が常にその中心にいた。同じく執拗にキエフ大公位を狙ったチェルニーゴフ系オーリゴヴィチをもほぼ圧倒して、キエフ大公位争奪戦で優位に立っていた。
このような権勢は、ノーヴゴロド公位にも反映されている。12世紀後半から13世紀初頭にかけて、こちらではヴラディーミル系モノマーシチと公位争奪戦を演じていた。
この時期はポーロツク公領が内紛もからんで衰退した時期で、分領のヴィテブスクやドルツク、さらにはポーロツクそのものすらスモレンスク系一族がしばしば支配していた。
さらに1216年にはヴラディーミル系の内紛に介入し、ヴラディーミル系を圧倒。その後ムスティスラーフ幸運公はガーリチ公領継承争いに介入し、ここを占領している。
このようにスモレンスク系一族が全ルーシ規模で活躍する際に、その力の源泉となったのがスモレンスク公領であった(スモレンスク軍は諸公の遠征に従い東奔西走している)。およそ半世紀以上にわたり、スモレンスク公領はキエフ・ルーシにおける最有力の公領のひとつであった。
都市スモレンスク自体は1238年のモンゴル襲来の被害を受けずに済んだ。しかしスモレンスク公領はモンゴルによって破壊され、この時期を境に衰退に向かう。
内的な要因については、年代記の情報がほぼ欠如しているためによくわからない。1230年頃に地震と疫病の流行があり、それがスモレンスク衰退の一因として挙げられることがあるようだ。モンゴルに破壊されたことも挙げられるが、他方で同じくモンゴルに徹底的に破壊されたヴラディーミル大公領は復興を遂げている。とはいえ、ヴラディーミル大公領とスモレンスク公領とでは地政学的な環境も大きく異なっていたのは確かである。
外的な要因としては、ひとつにははるか西方でリトアニアが膨張したことである。ポーロツク公領が弱体化していたため、リトアニアの勢力が直接スモレンスク公領にも及んできた。また、スモレンスク公領も結局は他のルーシ諸公領と同様にモンゴルの宗主権下に置かれた。ノーヴゴロドは完全にスモレンスク系の手を離れてヴラディーミル系の支配下に陥り、ヴラディーミル大公が北ルーシの覇権を握った。
14世紀に入ると、東方でモスクワ公領が急速に勢力を拡大してきた。分領のモジャイスク公領は占領され、ノーヴゴロドやその分領がモスクワ公の手に陥ち、スモレンスク公領はモスクワの勢力に包囲されることになった。
これに対抗する意味もあったか、もうひとつにはモンゴルへの従属から脱却するために、歴代スモレンスク公は(この頃は大公を自称していた)、西のリトアニア大公と手を結ぶ。しかしリトアニアにとってスモレンスク大公領はポーロツク公領に次いで併合すべき目標であり、結局スモレンスク大公領は東のモスクワ、西のリトアニアに挟まれて弱体化していった。
とはいえ、この時期スモレンスク大公領はセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心都市であったブリャンスクを勢力圏に収めている。セーヴェルスカヤ・ゼムリャーが荒廃し、オーリゴヴィチ一族がオカー河上流域に退避した隙を衝いたのだろう。
ブリャンスクは14世紀半ばにリトアニアに奪われる。この時期のスモレンスク大公領は、事実上リトアニアかモスクワの属領と化していた(その時々の情勢によってどちらに属するかは変わった)。
1386年、リトアニア大公ヴィタウタスに敗北し、スモレンスク大公には傀儡が立てられた。1395年、スモレンスク大公領は正式にリトアニアに併合される。その後一旦ユーリイ・スヴャトスラーヴィチが大公となって独立を回復するが、それもリトアニアが一時的に弱体化したためである。1404年、再度ヴィタウタスに占領され、スモレンスク大公領は最終的にリトアニアに併合された。
スモレンスク公 князь Смоленский
スモレンスク Смоленск は863年から知られるロシア最古の都市のひとつ(ロシア連邦スモレンスク州州都)。
初期には、公の存在は断続的である。北東ルーシ(ロストーフ公領)と並び、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ以来モノマーシチの «ヴォーッチナ» となっていたが、しばしばロストーフ公やノーヴゴロド公によって統治されていたようだ(スヴャトスラーヴィチに与えられていたこともある)。
スモレンスク公領の歴史は1125年(1127年?)、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが公となった時に始まると考えるべきだろう。周辺公領との国境も確定し、独自の主教座も設けられ(1137年)、スモレンスク公領も都市スモレンスク自体も発展した。それが12世紀のスモレンスク系一族の全ルーシ的な活躍を支える基盤となっている。
しかしスモレンスク系一族がキエフ大公位を巡る争いで優位に立っていたことが、あるいはスモレンスク公領没落の一因と言えるかもしれない。特に13世紀に入ると、歴代スモレンスク公はしばしばスモレンスク公位を棄てて南ルーシへ赴いている。これはかれらがスモレンスクの経営をないがしろにしたことの表れとは言えまいか。
とはいえ、スモレンスク公領はほとんど分領を生まず、公領全体をスモレンスク公が統治していたようだ。分領を生まなかったと思われるにもかかわらず一族の内紛もあまり見られず、そのため12世紀後半から13世紀にかけて西のポーロツク公領に、14世紀に入ると南のセーヴェルスカヤ・ゼムリャーにと領土を拡大している。
14世紀、西のリトアニアと東のモスクワに挟撃され、スモレンスク公領は弱体化の一途を辿る。最終的には1404年にリトアニアに併合された。
14世紀から17世紀まで300年にわたってモスクワ・ロシアとリトアニア・ポーランドとの間で激しい争奪戦がおこなわれた。ポーランド分割まではロシアの西の国境都市であり、そのため西方からの侵略者との大きな戦闘が幾度となくここで行われている(ポーランド、ナポレオン、ナチス・ドイツ等)。
987- | 5 | スタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | リューリコヴィチ | (ヴラディーミル偉大公の子) |
1054-57 | 6 | ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチ | リューリコヴィチ | 甥(ヤロスラーフ賢公の子) |
1057-60 | 6 | イーゴリ・ヤロスラーヴィチ | グロドノ系 | 弟 |
1073-78 | 7 | ヴラディーミル・モノマーフ | モノマーシチ | 甥 |
1090s | 8 | イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ? | モノマーシチ | 子 |
-1097 | 7 | ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | (スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
-1113 | 8 | スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | (ヴラディーミル・モノマーフの子) |
1113-25 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 弟 |
1125-60 | 9 | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 甥(ムスティスラーフ偉大公の子) |
1160-72 | 10 | ロマーン・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1172-74 | 11 | ヤロポルク・ロマーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1175-77 | 10 | ムスティスラーフ勇敢公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 叔父 |
1177-80 | 10 | ロマーン・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 兄/再任 |
1180-97 | 10 | ダヴィド・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
1197-1214 | 11 | ムスティスラーフ老公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 甥(ロマーン・ロスティスラーヴィチの子) |
1214-19 | 11 | ヴラディーミル・リューリコヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟(リューリク・ロスティスラーヴィチの子) |
1219-30 | 11 | ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟(ダヴィド・ロスティスラーヴィチの子) |
1230-32 | 12 | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ? | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1232-39 | 12 | スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ老公の子) |
1239-49 | 12 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
1249-78 | 13 | グレーブ・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの孫) |
1278-79 | 13 | ミハイール・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
1280-97 | 13 | フョードル黒公 | モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系) | 弟 |
1297-1313 | 14 | アレクサンドル・グレーボヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 甥(グレーブ・ロスティスラーヴィチの子) |
1313-59 | 15 | イヴァン・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1359-86 | 16 | スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1386-92 | 17 | ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1392-95 | 17 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
1401-05 | 17 | ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 兄/再任 |
トローペツ公 князь Торопецкий
トローペツ Торопец はスモレンスクとノーヴゴロドの中間に位置する都市(ロシア連邦トヴェーリ州)。
1167年、ムスティスラーフ勇敢公により分領となる。スモレンスク公領の北端に位置する。北をノーヴゴロド、西をポーロツク、東をヴラディーミル、南をスモレンスクと大国に囲まれ、その仲裁役として少なからぬ役割を果たした。もっとも、ムスティスラーヴィチ一族が断絶した後は、どうやらスモレンスク公領に統合されたようだ。
1320年、都市トローペツはリトアニアに占領され、1362年には全公領がリトアニアに征服される。
1167-80 | 10 | ムスティスラーフ勇敢公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1181-1213 | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
-1225 | 11 | ダヴィド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
ルジェーフ公 князь Ржевский
ルジェーフ Ржев はヴャージマのはるか北方、おおよそスモレンスクとトヴェーリとの中間に位置するヴォルガ河畔の都市(ロシア連邦トヴェーリ州)。
当初はトローペツ公領だった。のち、おそらくフォミンスク公領になったようだ。
-1180 | 10 | ムスティスラーフ勇敢公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1181- | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
11 | ダヴィド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 兄? | |
1222?- | 11 | ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 兄 |
14 | フョードル年少公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (フォミンスク公コンスタンティーン・グレーボヴィチの子) | |
15 | フョードル・フョードロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
フォミンスク公 князь Фоминский
ここではフォミンスクとしておいたが、この都市が当時正確に何と呼ばれていたのかよくわからない(フォミン?)。ヴャージマのはるか北方、ルジェーフやズブツォーフの近郊にあった都市(ロシア連邦トヴェーリ州)。現存しない。とはいえ、フォミンスコエやフォミノといった名の集落が存在しているらしい。
グレーブ・コンスタンティーノヴィチ(あるいはその父コンスタンティーン・ダヴィドヴィチ)の分領となったらしい。スモレンスク公領の北東部を広く領有したようだが、やがてルジェーフ、コズローフなどに細分化されていく。最終的にはトヴェーリ公領に併合されたらしい(近郊のズブツォーフはトヴェーリ公領の分領となっている)。
12 | グレーブ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (コンスタンティーン・ダヴィドヴィチの子) | |
13 | ユーリイ・グレーボヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
コズローフ公 князь Козловский
コズローフ Козлов はトヴェーリの南方にある都市(ロシア連邦トヴェーリ州)。
14 | フョードル赤公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (フォミンスク公コンスタンティーン・グレーボヴィチの子) | |
15 | ヴァシーリー・フョードロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
ヴャージマ公 князь Вяземский
ヴャージマ Вязьма は、スモレンスクとモスクワの中間に位置する都市(ロシア連邦スモレンスク州)。
スモレンスク公領の中央部(西にスモレンスク、東にモジャイスク公領)。1239年にアンドレイ長手公に与えられたとする文献もあるが、アンドレイ長手公は1223年のカルカ河畔の戦いで戦死したとする文献もある。あるいはかれは、さらに100年後の14世紀半ばの人物ともされている。このように初期のヴャージマ公についてはよくわからない。しかしアンドレイ長手公の後すぐにふたつ(年長系と年少系)に分裂したらしい(その子孫がロシア貴族のヴャーゼムスキイ家)。
ヴャージマそのものは1403年にリトアニアに併合された。1494年、モスクワに併合される。
1239- | 12 | アンドレイ長手公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチの子) |
モジャイスク公 князь Можайский
モジャイスク Можайск はモスクワ西方にあるモスクワ河畔の都市(ロシア連邦モスクワ州)。
スモレンスク公領の東端に位置して北東ルーシ(ロストーフ公領)と接していた。モジャイスクが分領となった13世紀後半はすでにスモレンスク公領が弱体化しつつあった時期で、やがて東隣で勢力を拡大しつつあるモスクワ公がモジャイスクを狙うようになる(モスクワ河流域一帯を支配下に収めようとして)。1303年、モジャイスク公領はモスクワに併合される。
1389年、ドミートリイ・ドンスコーイによりモスクワ大公領の分領となる。なお、ユーリイ・ヴァシーリエヴィチとアンドレイ・ヴァシーリエヴィチと、どちらも分領の主都はモジャイスクではなかった。
1260-97 | 13 | フョードル黒公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1297-1303 | 13 | スヴャトスラーフ・グレーボヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 甥 |
1389-1432 | 16 | アンドレイ・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1432-54 | 17 | イヴァン・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
1462-73 | 18 | ドミートロフ公ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (モスクワ大公ヴァシーリー2世の子) |
1481-91 | 18 | ウーグリチ公アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 弟 |
セレホフ公 князь Селеховский
セレホフ Селехов がどこにあったかわからない。
1396年、リトアニアに奪われる。
-1396 | 16 | ヴァシーリー・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公イヴァン・アレクサンドロヴィチの子) |
ポルホフ公 князь Порховский
ポルホフ Порхов はプスコーフの東方にある都市(ロシア連邦プスコーフ州)。
もともとはノーヴゴロド公領。どうした経緯でスモレンスク公の一族がここの分領公となったかよくわからない。
17 | イヴァン・スヴャトスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチの子) |
ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский
ドロゴブージュ Дорогобуж はスモレンスクの東方にあるドニェプル河畔の都市(ロシア連邦スモレンスク州)。
年代記への初出は13世紀初頭だが、その頃(あるいは直後)に分領になったと言われる。もっとも独自の公がいたかどうかよくわからない。1300年にスモレンスク公アレクサンドル・グレーボヴィチがドロゴブーシュを攻撃した際には、ヴャージマ公アンドレイ・ミハイロヴィチが救援にかけつけている。あるいはヴャージマ公領の一部であったのかもしれない。
ムスティスラーヴリ公 князь Мстиславский
ムスティスラーヴリ Мстиславль はスモレンスクの南方にある、現国境沿いの都市(ベラルーシ共和国モギリョーフ州)。
ロマーン・ロスティスラーヴィチにより建設され、息子ムスティスラーフ老公にちなんで名づけられたらしい。1359年、リトアニア領に。公領としての歴史はそれ以降。セミョーン・オリゲルドヴィチの子孫がここを «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» として支配し、ムスティスラーフスキイ公家となった。
1180- | 11 | ムスティスラーフ老公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチの子) |
-1390 | ─ | カジミール(異教名カリガイラ) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1392-1431 | ─ | セミョーン(異教名レングヴェニス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1431-57? | ─ | ユーリイ・セミョーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ムスティスラーフスキイ家) | 子 |
1457?-86? | ─ | イヴァン・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ(ムスティスラーフスキイ家) | 子 |
1486?-1514 | ─ | ミハイール・イヴァーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ザスラーフスキイ家) | 娘婿 |
ベーラヤ公 князь Бельский
ベーラヤ Белая (現名ベールィー Белый)はスモレンスクとルジェーフの中間辺りにある都市(ロシア連邦トヴェーリ州)。
1355年、リトアニア領に。リトアニア治下にて分領となる。リトアニア大公アルギルダスの孫イヴァン・ヴラディーミロヴィチがのちのベリスキイ公家の祖であるが、かれがベーラヤ公であったか否かは不明。もっとも、その子らにしても、同時代史料では「ベリスキイ」とは呼ばれていない。フョードルとセミョーンの兄弟はいずれもモスクワ大公に仕えるようになったが、かれらが「ベリスキイ」と呼ばれるのはそれ以降である。当然その時点では、ベーラヤはリトアニア大公領なので、かれらの所有下にはない。あるいはそもそもベーラヤ公領は存在しなかったのかもしれない。
─ | イヴァン・ヴラディーミロヴィチ | ゲディミノヴィチ(ベリスキイ家) | (キエフ公ヴラディーミルの子) | |
-1482 | ─ | フョードル・イヴァーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ベリスキイ家) | 子 |
-1500 | ─ | セミョーン・イヴァーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ベリスキイ家) | 弟 |