ポーロツク公領
ポーロツク公領は、キエフ・ルーシで最初に成立した世襲公領。
北にノーヴゴロド公領、東にスモレンスク公領、南にトゥーロフ公領、西にリトアニア人と接する。南西はのちに西欧で «黒ルテニア» と呼ばれる地で、おそらくグロドノ公領。公領の中心部を流れる西ドヴィナー河を下るとリヴォニアである。またドニェプル河中流域(の西岸)とベレジナー河(その支流)もポーロツク公領であった。
その領域は、ごく大雑把に現在のベラルーシに重なると言えるだろうが、細かく見ると、おそらく東のドニェプル東岸はスモレンスク公領、また南のプリーピャチ流域はトゥーロフ公領、西のネマン流域の多くはグロドノ公領と、現ベラルーシよりは一回り小さかったものと考えられる。しかし北西部では、特に後代、西ドヴィナー流域を下って現ラトヴィアにまで勢力を拡大していった。
もともとはクリヴィチー人の居住地で、ノーヴゴロドともキエフとも無縁なところで公領が形成されている。その成立の時期や状況、領土などはよくわからない。しかし978年(980年)の時点では公はヴァリャーグ人のローグヴォロドであった。おそらくリューリクを公としたノーヴゴロドと同様の事情で成立したのではないだろうか。
978年(980年)にヴラディーミル偉大公に征服されてキエフ・ルーシに併合される。しかしその子イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの下ですぐに独立を回復する。もっともイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは父の生前に死没しており、ポーロツク公領の再独立への歩みはむしろその子ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチから始まると言うべきだろう。
ポーロツク公領の最盛期はおそらく11世紀、ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチとフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの父子が100年にわたって君臨した時期であろう。ポーロツク公領は諸公領の中でも特に公の権力が強い国として知られているが、それもこの父子の強力な支配によるものであろう。
ポーロツク公領は西ドヴィナー河を通じてバルト海と黒海との交易の中継地として栄える。リューリクとは別のヴァリャーグ人がここに公国を建てたのも、おそらくそのためだろう。経済的にも文化的にも発展し、政治的にもキエフからの独立傾向が強かった。
キエフやノーヴゴロドと、政治的にも経済的にも対立。特にノーヴゴロドとの対立は、バルト海との交易路を巡るものであり、これに敗北したことが、ポーロツク公領没落のひとつの要因である。
なお、ポーロツクに主教座が置かれたのは1104年になってから。それとて決して遅いものではないが、ロストーフやヴラディーミル=ヴォルィンスキイにも100年以上前に設置されていたことを考えると、いかにも遅い気がする。
1101年にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチが死去。年代記の記録が断片的でよくわからないが、ポーロツク公領は多くの分領に分割されたらしい。しかも1129年にはキエフ大公の干渉を受け、ポーロツク系諸公がコンスタンティノープルに追放される。ポーロツク公領はキエフ大公の支配下に置かれることになった。
その後ポーロツク系のリューリコヴィチは復活するものの、大きくヴィテブスク系、ドルツク系、ミンスク系に分裂し、ポーロツク公位を巡って激しく争うようになる。ポーロツク公領全体の統一は崩れ、ノーヴゴロドが発展していくのに反比例してポーロツクの経済的重要性も薄れていき、ポーロツク公領は衰退していく。12世紀半ば以降は、東のスモレンスク公が大きな影響力を行使するようになった。
一方で北西部では、いまだ政治的統一を果たしていないバルト系諸民族の土地に勢力を拡大し、現ラトヴィア中部にまで分領を形成している。
13世紀に入ると、北西のリヴォニア騎士団との争いが激しくなるが、公位にあったのが誰かすらはっきりしないポーロツク公領は徐々に押されていき、西ドヴィナー下流域の支配権を失った。西のリトアニアとは何度も干戈を交えていたが、リヴォニア騎士団に対抗するため、リトアニアがミンダウガスの下に統一され台頭してくると、1240年代からタウトヴィラス(トフティヴィル)をはじめリトアニア人が公に招かれ、ポーロツク公領は事実上リトアニアの属領となった。
記録の欠如から、リトアニアに併合されたプロセスはよくわからないが、14世紀半ばまでには完全にリトアニア領となる。
ポーロツク公 князь Полоцкий
ポーロツク Полоцк は、西ドヴィナー河畔にある、ベラルーシ最古の都市(ベラルーシ共和国ヴィテブスク州)。
ポーロツク公位はイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子孫が公家としてほぼ独占的に世襲する。よってこの系統をポーロツク系と呼ぶのが一般的である。
しかし歴代公についての具体的な部分に関しては、1101年のフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの死以降、史料的にはっきりしないところが多い。それでもヴィテブスク系、ドルツク系、ミンスク系による公位争奪戦には周辺諸公も絡んできて、年代記にもそれなりに記述されている。ところが1167年のフセスラーフ・ヴァシリコヴィチ以降はその情報がなくなる。あとはごく断片的なものが間欠的に見受けられるだけで、しかも主な情報源がルーシの年代記ではなくリヴォニアの年代記であったりする(その場合は語学的な問題も生じる)。
1232年以降は、代々のヴィテブスク公がポーロツク公位を兼ねたとする見方がある。しかし実態としては、ポーロツク公領は解体していたのだろう。おそらくこの頃から、ポーロツク公領は全体がリトアニアの属領となっていた、あるいは事実上併合されていたものと考えられる。
リトアニア支配下でも公領として存続したが、それも1400年前後まで。
-970s | ─ | ローグヴォロド | ? | ? |
987-1001 | 5 | イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | ポーロツク系 | 孫(ヴラディーミル偉大公の子) |
1001-03 | 6 | フセスラーフ・イジャスラーヴィチ | ポーロツク系 | 子 |
1003-44 | 6 | ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ | ポーロツク系 | 弟 |
1044-68 | 7 | フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ | ポーロツク系 | 子 |
1069 | 7 | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | (イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1069-71 | 7 | スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
1071-1101 | 7 | フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ | ポーロツク系 | 再任 |
1101-16 | 8 | ロマーン・フセスラーヴィチ | ポーロツク系 | 子 |
1116-19 | 8 | グレーブ・フセスラーヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 弟 |
1119-27 | 8 | ボリース・フセスラーヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 弟 |
1127 | 8 | ダヴィド・フセスラーヴィチ | ポーロツク系 | 弟 |
1127-28 | 8 | ローグヴォロド・フセスラーヴィチ | ポーロツク系 | 弟 |
1128-29 | 8 | ダヴィド・フセスラーヴィチ | ポーロツク系 | 兄/再任 |
1129-32 | 9 | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ | (ムスティスラーフ偉大公の子) |
1132-44 | 9 | ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | (スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチの子) |
1144-51 | 9 | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 従兄弟(ボリース・フセスラーヴィチの子) |
1151-59 | 9 | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 従兄弟(グレーブ・フセスラーヴィチの子) |
1159-62 | 9 | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 従兄弟/再任 |
1162-67 | 10 | フセスラーフ・ヴァシリコヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | (ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチの子) |
1167 | 9 | ヴォロダーリ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (グレーブ・フセスラーヴィチの子) |
1167- | 10 | フセスラーフ・ヴァシリコヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 再任 |
1186-1215 | ? | ヴラディーミル(ヴォロダーリ?) | ポーロツク系? | ? |
? | ボリース・ダヴィドヴィチ | ポーロツク系? | ? | |
1222-32 | 12 | スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公ムスティスラーフ老公の子) |
1232- | 12 | ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ? | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | |
1253-63 | ─ | トフティヴィル(本名タウトヴィラス) | ? | (リトアニア大公ミンダウガスの甥) |
1264-67 | ─ | ゲルデニ(本名ゲルデニス)? | ? | ? |
1270/80-90s | ─ | コンスタンティーン? | ? | (トフティヴィルの子)? |
1315-34 | ─ | ヴォイン(本名ヴァイニウス) | ゲディミノヴィチ? | (リトアニア大公ゲディミナスの弟?) |
1334-42 | ─ | リューブコ | ゲディミノヴィチ | 子 |
1338 | ─ | グレーブ(本名ナリマンタス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |
1342-77 | ─ | アンドレイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1377-81 | ─ | イヴァン(異教名スキルガイラ) | ゲディミノヴィチ | 弟 |
1381-87 | ─ | アンドレイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | 再任 |
1387-93 | ─ | イヴァン(異教名スキルガイラ) | ゲディミノヴィチ | 再任 |
1393-99 | ─ | アンドレイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | 再任 |
ヴィテブスク公 князь Витебский
ヴィテブスク Витебск は西ドヴィナー河畔にあるベラルーシ北東部の都市(ベラルーシ共和国ヴィテブスク州州都)。
ある年代記によれば、1021年にヤロスラーフ賢公からブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチに与えられたという。おそらくフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの死で分領となったと考えられている。1129年にキエフ大公ムスティスラーフ偉大公によってポーロツク系諸公はコンスタンティノープルに追放されたが、ヴィテブスク公領は最も早く復活している(わずか3年後)。12世紀半ばには、ポーロツク公位を巡ってドルツク公、ミンスク公と激しく争う。
しかしあるいはそのために本領がおろそかになったのか、素性のわからないロマーン・ヴャチェスラーヴィチなどという人物がヴィテブスク公になっているかと思えば、1165年にはスモレンスク公にヴィテブスクを奪われてしまう。この時期はポーロツク公位を巡ってポーロツク系諸公が激しく相争っていた時期で、急速に台頭してきたスモレンスク系諸公に圧されてしまったというところだろう(12世紀末にはスモレンスク公の派遣した代官がヴィテブスク公に代わって実権を握っていたらしい)。
記録上はっきりしないものの、ポーロツク公位すらリトアニア人に握られていた13世紀には、ヴィテブスク系がポーロツク公領におけるほぼ唯一のルーシ諸公となった(ドルツク系も残っていたようだが)。とはいえ、ヴィテブスク公領も急速に勢力を拡大するリトアニアの勢力圏に呑みこまれていく。1320年、最後の公ヤロスラーフ・ヴァシーリエヴィチの死で、その娘婿アルギルダスが相続。アルギルダスがリトアニア大公になるに及び、ヴィテプスク公領はリトアニアに併合されることとなった。
1101-29 | 8 | スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | (フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの子) |
-1132 | 9 | ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ? | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 子 |
1144-62 | 10 | フセスラーフ・ヴァシリコヴィチ? | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 子 |
1162-65 | 10 | ロマーン・ヴャチェスラーヴィチ | ポーロツク系(?) | |
1165-67 | 10 | ダヴィド・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1175-81 | 10 | ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | (フセスラーフ・ヴァシリコヴィチの弟) |
1181-1221 | 11 | ヴァシリコ・ブリャチスラーヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 子 |
1221-32 | 12 | ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ? | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 子 |
1243-97 | 13 | ヴァシリコ・ブリャチスラーヴィチ? | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 子 |
1297-1320 | 14 | ヤロスラーフ・ヴァシリコヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | 子 |
1320-45 | ─ | オリゲルド(本名アルギルダス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |
1381-82 | ─ | ヤガイロ(本名ヨガイラ) | ゲディミノヴィチ | 子 |
1392 | ─ | ボレスラーフ(異教名シュヴィトリガイラ) | ゲディミノヴィチ | 弟 |
ドルツク公 князь Друцкий
ドルツク Друцк はベラルーシ北東部の古い都市(ベラルーシ共和国モギリョーフ州)。地理的にはおおよそミンスクとスモレンスクの中間地点に位置し、ミンスク州・ヴィテブスク州と接する付近。現存しない。
フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの死で分領になったと考えられている。もっとも1116年の時点でドルツクはミンスク公グレープ・フセスラーヴィチの領土であり、果たして本当にすでに分領になっていたのかどうかはっきりしない。また、すでに分領になっていたとしても、1129年にはキエフ大公ムスティスラーフ偉大公によってポーロツク系諸公がまとめてコンスタンティノープルに追放されており、ドルツクもムスティスラーフ偉大公の子イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの領土になったものと思われる。
1140年頃にローグヴォロド・ボリーソヴィチがドルツク公になったとされているが、ドルツク公領の明確な歴史はここから始まる。その後ポーロツク公位を巡って激しくヴィテプスク公、ミンスク公と争い、一旦はドルツク自体をミンスク公に奪われたこともあった。
しかし、おそらく記録上の不備のためだろうが、1196年のボリースに関する言及を最後に、ドルツク公は史料上確認されなくなる。12世紀後半からはポーロツク公領自体が弱体化しており、13世紀にはドルツク公領も一時スモレンスク公の属領となったとも言われる。最終的には14世紀初頭にリトアニアに併合された。
リトアニア支配下でも分領として存続し、リューリクの子孫は1508年にも依然としてドルツクの公であったらしい。しかし上述のように12世紀末で年代記上系図は途切れており、この頃の公家の出自ははっきりしない。ポーロツク系の末裔、ヴォルィニ系の末裔、トゥーロフ系の末裔等々、諸説ある。その後分領公としての地位を失うが、ポーランドとロシア双方で貴族として活躍した。
1101-19 | 8 | ボリース・フセスラーヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | (フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの子) |
1119-29 | 9 | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ? | ポーロツク系(ドルツク系) | 子 |
1140-46 | 9 | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 再任 |
1146-51 | 10 | グレーブ・ログヴォローディチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 子 |
1151-58 | 10 | グレーブ・ロスティスラーヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (ミンスク公ロスティスラーフ・グレーボヴィチの子) |
1158-59 | 9 | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 再任 |
1163- | 10 | グレーブ・ログヴォローディチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 子/再任 |
1190s | 11 | ボリース・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ドルツク系) | 子 |
ミンスク公 князь Минский
ミンスク Минск は現ベラルーシの首都(ベラルーシ共和国ミンスク州州都)。現在でこそベラルーシの中央部に位置しているが、ポーロツク公領にあっては南西のはずれだった。
フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの死で分領になったと考えられている。しかし1119年にはヴラディーミル・モノマーフに奪われ、ポーロツク公領から切り離されてキエフ大公の直轄領となった。
1146年、公領として復活。もちろん公位に就いたのはポーロツク系一族であり、公位を回復したロスティスラーフ・グレーボヴィチ自身もポーロツク公となっている。以後、ヴィテブスク公、ドルツク公とポーロツク公位を巡って激しく争う。同時にこの時期(以降)、おそらくイジャスラーヴリ、ゴロデーツ、ロゴジュスクなどの分領を生んでいる。ポーロツクを3分割したミンスク、ヴィテブスク、ドルツクの中で、分領に分割されたのが確かなのはミンスク公領だけである。
13世紀に入るとリトアニアの影響が徐々に強まる。しかしすでに12世紀末にはミンスク公の存在そのものが確認されなくなっていた。
モンゴルの来襲にはリトアニアと共同して当たったが、幸いにもモンゴル軍の攻略を受けることはなかった(1249年には近郊でリトアニア軍と共同でモンゴル軍を撃退している)。その後事実上リトアニアの属領化。1326年、キプチャク・ハーンに破壊され、その直後にリトアニアに併合される。
1101-19 | 8 | グレーブ・フセスラーヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの子) |
1146-51 | 9 | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 子 |
1151-59 | 9 | ヴォロダーリ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 弟 |
1159-65 | 9 | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 兄/再任 |
1165-67 | 9 | ヴォロダーリ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 弟/再任 |
1180s | 10 | ヴラディーミル・ヴォロダーレヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | 子 |
-1326 | ? | ヴァシーリイ | ポーロツク系? | ? |
イジャスラーヴリ公 князь Изяславский
イジャスラーヴリ Изяславль (現名ザスラーヴリ Заславль)はミンスクの近郊(西)にある小都市(ベラルーシ共和国ミンスク州)。
ヴラディーミル偉大公によって、その子イジャスラーフ(ポーロツク系始祖)のために建てられた(明らかにかれにちなんで名づけられた)。なので初代公はイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチだが、かれはそのまま居をポーロツクに移しているので、イジャスラーヴリ公であった期間はごくわずか。
ポーロツク公領が分割された時にどうなったかは不明だが、この時ダヴィド・フセスラーヴィチの領土として独立の分領になったとも考えられている。しかしその後は12世紀半ばに一瞬だけ公が確認されるものの、それ以外に独自の公の存在は知られていない。地理的に見て、おそらくミンスク公領に組み込まれたのだろう。
1320年代にはリトアニアの支配下に入り、1345年にはリトアニア大公位を追われたヤウヌティスに与えられ、その子孫が公として続いた(ザスラーフスキイ公家)。
1101-27 | 8 | ダヴィド・フセスラーヴィチ? | ポーロツク系 | (フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの子) |
1127-29 | 9 | ブリャチスラーフ・ダヴィドヴィチ | ポーロツク系 | 子 |
1158-59 | 10 | ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ | ポーロツク系(ヴィテブスク系) | (ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチの子) |
1159 | 9 | フセーヴォロド・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (ポーロツク公グレーブ・フセスラーヴィチの子) |
1345- | ─ | イヴァン(異教名ヤウヌティス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |
-1399 | ─ | ミハイール・イヴァーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ザスラーフスキイ家) | 子 |
1399- | ─ | ユーリイ・ミハイロヴィチ | ゲディミノヴィチ(ザスラーフスキイ家) | 子 |
─ | イヴァン・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ(ザスラーフスキイ家) | 子 | |
─ | ミハイール・イヴァーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ザスラーフスキイ家) | 子 |
ルコームリ公 князь Лукомский
ルコームリ Лукомль は、ほぼミンスクとヴィテブスクの中間辺り、小さなルコームリ湖畔の小都市(ベラルーシ共和国ヴィテブスク州)。
1101年、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチの死でおそらく息子たちがポーロツク公領を分け合い、この時おそらくルコームリも分領になっただろうと考えられている。その際、ロスティスラーフ・フセスラーヴィチの領土になったと考える意見が多いようだ。もっともそれは、ロスティスラーフ・フセスラーヴィチの分領がどこか不明だからである。その後も、分領の不明なポーロツク系の公がルコームリ公だったのではないかと考えられているが、何ら根拠があるわけではない。
15世紀、リトアニア治下にルコームリ公がいたらしいが、これがリューリコヴィチ(ポーロツク系)なのかそれともリトアニア系なのか、よくわからない(のちポーランド貴族のルコムスキ家)。
ボリーソフ公 князь Борисовский
ボリーソフ Борисов はミンスクの北東、ベレジナー河畔の都市(ベラルーシ共和国ミンスク州)。
ルコームリ同様、1101年に分領になったと想像されている。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチには7人の子がいたので、ポーロツク、ヴィテブスク、ドルツク、ミンスク、イジャスラーヴリ、ルコームリ、ボリーソフとちょうど7人分の分領が揃うわけだが、果たしてどんなもんだろうか。
ストレージェフ公 князь Стрежевский
ストレージェフ Стрежев は、ポーロツクの南東、ヴィテブスクの西の、西ドヴィナー河畔にある小都市(ベラルーシ共和国ヴィテブスク州)。
分領と言えるのかどうか。イジャスラーヴリを追われたフセーヴォロド・グレーボヴィチが、代償としてもらった、というだけ。すぐにイジャスラーヴリを奪回しているので、ストレージェフ公であった期間もごくわずか。
与えたローグヴォロド・ボリーソヴィチがドルツク系なのでドルツク公領かとも思えるが、地理的な点、またフセーヴォロド・グレーボヴィチに替わってイジャスラーヴリ公となったブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチがヴィテブスク系だった点も考えると、ヴィテブスク公領だったのかもしれない。
1159- | 9 | フセーヴォロド・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチの子) |
ゴロデーツ公 князь Городцовский
ここではゴロデーツ Городец としておいたが、正確な地名はよくわからない。ゴロードノ Городно とかゴーロデン Городен とする史料もあるようだ。現存しない。と言うか、同定できていない。ミンスクの北西近郊にあったとする説もあれば、遠く西方リトアニアとの国境にあったとする説もある。グロドノと同一視する説もあるようだ。
そもそも分領と言えるのかどうか。兄にミンスク公位を譲ったヴォロダーリ・グレーボヴィチが、代わりにここに居を構えた、というだけ。やがて兄の死後、ミンスク公位を継承している。この経緯からも、明らかにミンスク公領。
1159-65 | 9 | ヴォロダーリ・グレーボヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチの子) |
ロゴジュスク公 князь Лагожский
ロゴジュスク Логожск (現名ロゴイスク Логойск)は、ミンスクの北東にある小都市(ベラルーシ共和国ミンスク州)。史料的にはラゴジュスク、ラゴイスクなど、いくつかの呼び名がある。
元来はミンスク公領。しかし1116年(あるいは1119年)以降、切り離されたらしい。イジャスラーヴリ公ブリャチスラーフ・ダヴィドヴィチの領土になったとする文献があるが、根拠は知らない。
その後いつかしら分領になったのだが、アンドレイとフセスラーフ・ミクーリチのふたりについては素性不明(そもそもポーロツク系かどうかも断定できない)。
1180s | ? | アンドレイ | ポーロツク系 | ? |
1180s | ? | フセスラーフ・ミクーリチ | ポーロツク系 | ? |
1180s-90s | 10 | ヴァシリコ・ヴォロダーレヴィチ | ポーロツク系(ミンスク系) | (ミンスク公ヴォロダーリ・グレーボヴィチの子) |
クケイノス公 князь Кукейносский
クケイノス Кукейнос (ラトヴィア語名コクネセ Koknese)はラトヴィア中部にある小村(ラトヴィア共和国)。ルーシの史料ではさまざまな呼ばれ方をしており、クケノイス、クコノス等、一定しない。
ここがいつリューリコヴィチの領土となったかは不明で、そもそもその公がリューリコヴィチであったという証拠すら存在しない(一般的には自明の理とされているようだが)。
1200s | ? | ヴャーチコ | ポーロツク系? | ? |
ゲルシケ公 князь Герсикский
ゲルシケ Герсике (ラトヴィア語名イェルシカ Jersika)はラトヴィア南東部の小村(ラトヴィア共和国)。ロシア語史料ではゲルツィケ Герцике とも。
元来はラトガリア人の都市。クケイノス同様、いつ、どのような経緯でリューリコヴィチの領土となったのか、そもそも知られている唯一の公であるフセーヴォロドがリューリコヴィチであるのか否か、まったくわかっていない。
-1215 | ? | フセーヴォロド | ポーロツク系? | ? |