クールラント公

クールラントは、大雑把に言って現ラトヴィアの南西部。13世紀にリヴォニア騎士団に征服され、広義のリヴォニアの一部となる。
 1561年にリヴォニアが解体すると、リヴォニア騎士団はクールランドを本拠に世俗化して、クールラント公領が成立。ただし独立君主ではなく、ポーランド王を主君とした。首都ミタウ。
 ちなみに、同時にドイツ騎士団もプロイセンを本拠に世俗化し、プロイセン公領が成立し、ポーランド王を主君としている。

 以後、最後のリヴォニア騎士団長であり最初のクールラント公となったケトラー家がクールラント公として世襲。
 同じくポーランド王を主君として世俗化したプロイセン公が、ホーエンツォレルン家の世襲となり、ブランデンブルクを本拠としてポーランド王と対立し、力関係を逆転させて独立を勝ち取り、ついには王を名乗るまでになったのに対して、クールラントは北のスウェーデン、東のロシアに圧迫されて国際情勢に翻弄された。

 18世紀初頭、北方戦争でバルト地方に勢力を拡大したロシアの影響力が増大し、フリードリヒ・ヴィルヘルムの死後、本来公位を継ぐべきフェールディナントを差し置いて、ピョートル大帝の圧力で未亡人アンナ・イヴァーノヴナ(ピョートル大帝の姪)がロシアの傀儡としてクールラントを支配した。以後、クールラントはロシアの «属国» となる。
 1737年にケトラー家が断絶すると、いまやロシア女帝となったアンナ・イヴァーノヴナの寵臣エルンスト・ビロンがクールラント公になる。一旦は «主君» であるポーランド王(当時はザクセン選帝侯が兼任)の一族が公位を得るが、その後再びビロンが登座。1795年、第3次ポーランド分割に際してロシアに併合される。

在位年血縁関係
1561-87ゴットハルト・ケトラー(リヴォニア騎士団長)
1587-1642フリードリヒ1世
1595-1616ヴィルヘルム
1642-81ヤーコプ
1682-98フリードリヒ2世・カジミール
1698-1711フリードリヒ3世・ヴィルヘルム
1711-30アンナ・イヴァーノヴナ
1730-37フェールディナントヤーコプの子
1737-58エルンスト・ヨハン・ビロン
1759-63カール・クリスティアン・フォン・ザクセン
1763-69エルンスト・ヨハン・ビロン(再登位)
1769-95ペーター・ビロン/ピョートル・ビロン

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 17 01 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロシアの歴代君主
inserted by FC2 system