キエフ公領
キエフを中心とした公領。日本語では(ロシア語でもそうだが)、キエフ大公国と区別しなければならない。キエフ公領はあくまでもキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の一部である。
キエフ公領はキエフを東端とし、ドニェプル河を境にチェルニーゴフ公領、ペレヤスラーヴリ公領と接する。北はトゥーロフ公領、西はヴォルィニ公領、そして南はテュルク系遊牧諸民族の地である。こんにちの地図にあてはめると、おおよそキエフ州西半とジトーミル州、それにチェルカッスィ州やヴィンニツァ州の北部など、周辺の一部を含む、面積的にはごく狭い領域である。
チェルニーゴフ公領は早くにキエフから切り離され、ヴォルィニ公領も11世紀後半には独自の公領として成立した。しかしトゥーロフ公領とペレヤスラーヴリ公領は代々のキエフ大公と密接な関係を保ち、このため両公領とキエフ公領との区別はあいまいなまま12世紀まで続いた。
キエフ公領はキエフ大公の直轄領である。そのため独自の公家は存在し得ず、キエフ大公の交替ごとに大きな変動に見舞われた。
特に12世紀に入ると、歴代のキエフ大公が自分の親族にキエフ公領の土地を分け与え、キエフ大公が替わるとその分領を巡る争いが起こる。これはチェルニーゴフやヴォルィニ、スモレンスクなど各公領にそれぞれ独自の系統が定着して、キエフ大公の息子たちに与えられる分領がなくなったこと、そして特にスモレンスクやロストーフなどキエフから遠い地を本拠とする諸公がキエフ大公となったこと(そのため手近なところに息子を置いておきたい)、などによる。
このように直轄領が諸勢力によって争われる状況にあって、キエフ大公はキエフ公領においてすら宗主権をなかなか行使できない状況が生まれた。その典型がスヴャトスラーフ・フセヴォローディチで、かれの時代、キエフ公領はキエフを除くほとんどをスモレンスク系一族が支配した。
キエフ大公位そのものがくるくる交替したのに加えて、直轄領たるキエフ公領がこのように諸勢力によって細分化されて、キエフ公領は公領としてのまとまりを失った(ほかの公領では、公家一族の内部で領土が分領に細分化されることはあっても、よその公家が分領を持つことはほとんどなかった)。都市としてのキエフ自体、諸公による大公位争奪戦(その結果としての都市の破壊や継続的な公権力の不在)のみならず、ドニェプル商業路の衰退、ポーロヴェツ人との戦い等により、徐々に衰退していく。
1240年、モンゴルの襲撃を受け、キエフ公領は荒廃する。廃墟と化したキエフ公領ではもはやキエフそのものにすら公は立たず、英語で言う «No-man's land(無主の地)» となった。東のチェルニーゴフ公、西のガーリチ=ヴォルィニ公すらほとんどキエフには興味を示さず、はるか北西のリトアニア人の蹂躙に任された。最終的には1362年にリトアニアに併合される。
キエフ公 князь Киевский
キエフ Киев はドニェプル河畔の都市(ウクライナ共和国の首都)。
もともとハザール帝国の軍事拠点として基礎が築かれたとも言われる。ルーシの年代記ではキイ、シチェク、ホリフの3兄弟と妹ルィベチにより建設され、ポリャーネ人の中心都市となったとされる(長兄キイにちなんでキエフと名づけられたという)。
その後、«ヴァリャーギからギリシャへの道» と、イティリ(ハザールの首都)とレーゲンスブルク(ドイツ)を結ぶ道の交差点として発展。
リューリクによりコンスタンティノープルに派遣されたアスコリドとディールが途中キエフを奪い、ここに君臨していたが、882年にオレーグにより征服されたという(この時のセリフ「Се буди мати градом русским」は有名)。その後キエフ・ルーシの首都として発展。ヴラディーミル偉大公の頃からその公は、諸公中の最優位の公として «大公 великий князь» を名乗るようになる。
しかしすでに11世紀後半にはキエフ・ルーシの分領制が進み、キエフ大公の実権は保持者の実力に依存するようになった。一般にヴラディーミル・モノマーフ、あるいはムスティスラーフ偉大公の死をもってキエフ・ルーシの統一が失われたとされるが、それはキエフ大公位の実権が失われたことでもあった。
この頃には、キエフ大公位は事実上モノマーシチの世襲となっていたが、これに異議を唱えたのがスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)である。ひとつにはモノマーシチ自身がヴォルィニ系、スモレンスク系、ヴラディーミル系に分裂して互いに抗争を繰り返したことが、スヴャトスラーヴィチに付け入る隙を与えたと言える。以後、1177年まで安定的にキエフ大公位を保ち得た者は、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ(7年)、フセーヴォロト・オーリゴヴィチ(7年)、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ(5年)ぐらいで、あとはほぼ1年か2年で大公位を失っている。モノマーシチの分裂により諸勢力の力が拮抗したためだろう。
結局、ヴォルィニ系とヴラディーミル系が局外から影響力を行使するだけで満足し、スモレンスク系とオーリゴヴィチとの協調が成って初めて、キエフ大公位は安定した。しかしそのようにして得られたキエフ大公位が権威を持つはずもない。ヴォルィニにおける情勢の変化で安定はたちまち崩れ、スモレンスク系とオーリゴヴィチの対立が再燃したことで再びキエフ大公位は不安定化した。
しかしすでにそれ以前から、多くの諸公がキエフ大公位に関心を示さず、キエフ・ルーシから事実上独立していった。その典型が、ひとつにはヴラディーミル系であろう(キエフを獲得しても弟に譲ったり、ヴラディーミルを継ぐためにキエフを棄てたりしている)。いつ頃からヴラディーミル公が大公を自称するようになったかは不明だが、モンゴルの襲来に前後して、ヴラディーミルのみならず、スモレンスク、チェルニーゴフ、リャザニなどの諸公が大公を名乗るようになったらしい。執拗にキエフを狙ったスモレンスクやチェルニーゴフの諸公すらも、もはやキエフ大公の権威を認めなくなったのである。
1240年、モンゴルの襲来でキエフは徹底的に破壊された。1246年、モンゴルにより南ルーシの支配者としてキエフ大公位を認められたアレクサンドル・ネフスキイがキエフに住まず、もっぱら北東ルーシにとどまったのは、キエフ大公位にもキエフという都市にも意味がなくなっていたことを如実に物語っている。これ以降は公の存在すらも確認されない。
1300年、府主教座がヴラディーミルに移される。唯一キエフに残された「全ルーシの正教会の中心」という地位すら失われた。
おそらくこの頃にはリトアニアの勢力圏に組み込まれていたものと思われる。正式には、1363年にリトアニアに併合された。
リトアニア治下でもゲディミノヴィチなどリトアニア人がキエフ公に任命されている。当然、もはや «大公» とは呼ばれない。なお、ゴリシャンスキイ家(アルシェニシュキス家/ホルシャニスキ家)の者もキエフ公と呼ばれることがあるが、正式には公ではなく代官。
なお、ここでは便宜上「〜世」という数字を振ったが、ルーシでは(現在のロシアでも)この方法は一般的ではない。
─ | キイ | ─ | ||
864-882 | ─ | アスコリド & ディール | ─ | |
882-912 | ─ | オレーグ | ─ | |
912-945 | 2 | イーゴリ1世 | リューリコヴィチ | (始祖リューリクの子) |
945-972 | 3 | スヴャトスラーフ1世・イーゴレヴィチ | リューリコヴィチ | 子 |
972-980 | 4 | ヤロポルク1世・スヴャトスラーヴィチ | リューリコヴィチ | 子 |
980-1015 | 4 | ヴラディーミル1世偉大公 | リューリコヴィチ | 弟 |
1015-16 | 5 | スヴャトポルク1世・オカヤンヌィイ | リューリコヴィチ | 子 |
1016-18 | 5 | ヤロスラーフ1世賢公 | リューリコヴィチ | 弟 |
1018-19 | 5 | スヴャトポルク1世・オカヤンヌィイ | リューリコヴィチ | 兄/再任 |
1019-54 | 5 | ヤロスラーフ1世賢公 | リューリコヴィチ | 弟/再任 |
1054-67 | 6 | イジャスラーフ1世・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
1068-69 | 7 | フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ | ポーロツク系 | (ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチの子) |
1069-73 | 6 | イジャスラーフ1世・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 再任 |
1073-76 | 6 | スヴャトスラーフ2世・ヤロスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | 弟 |
1077 | 6 | フセーヴォロド1世・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ | 弟 |
1077-78 | 6 | イジャスラーフ1世・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 兄/再任 |
1078-93 | 6 | フセーヴォロド1世・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ | 弟/再任 |
1093-1113 | 7 | スヴャトポルク2世・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 甥(イジャスラーフ1世の子) |
1113-25 | 7 | ヴラディーミル2世・モノマーフ | モノマーシチ | 従兄弟(フセーヴォロド1世の子) |
1125-32 | 8 | ムスティスラーフ1世偉大公 | モノマーシチ | 子 |
1132-39 | 8 | ヤロポルク2世・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 弟 |
1139 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 弟 |
1139-46 | 8 | フセーヴォロド2世・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ) | (スヴャトスラーフ1世の孫) |
1146 | 8 | イーゴリ2世・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ) | 弟 |
1146-49 | 9 | イジャスラーフ2世・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ムスティスラーフ偉大公の子) |
1149-51 | 8 | ユーリイ・ドルゴルーキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 叔父 |
1151-54 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ & イジャスラーフ2世・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ (イジャスラーフ2世はヴォルィニ系) | 兄 & 甥/再任 |
1154 | 9 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ & ロスティスラーフ1世・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ (ロスティスラーフ1世はスモレンスク系) | (ロスティスラーフ1世はイジャスラーフ2世の弟) |
1154-55 | 8 | イジャスラーフ3世・ダヴィドヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | (スヴャトスラーフ1世の孫) |
1155-57 | 8 | ユーリイ・ドルゴルーキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1157-58 | 8 | イジャスラーフ3世・ダヴィドヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | 再任 |
1159-62 | 9 | ロスティスラーフ1世・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1162 | 8 | イジャスラーフ3世・ダヴィドヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | 再任 |
1162-67 | 9 | ロスティスラーフ1世・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1167-69 | 10 | ムスティスラーフ2世・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 甥(イジャスラーフ2世の子) |
1169 | 9 | グレーブ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1169-70 | 10 | ムスティスラーフ2世・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1170-71 | 9 | グレーブ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1171 | 9 | ヴラディーミル3世・マーチェシチ | モノマーシチ | 従兄弟(ムスティスラーフ偉大公の子) |
1171-73 | 10 | ロマーン・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 甥(ロスティスラーフ1世の子) |
1173 | 9 | フセーヴォロド3世大巣公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1173 | 10 | リューリク2世・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ1世の子) |
1174 | 10 | ヤロスラーフ2世・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 従兄弟(イジャスラーフ2世の子) |
1174 | 9 | スヴャトスラーフ3世・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (フセーヴォロト2世の子) |
1175 | 10 | ヤロスラーフ2世・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1175-77 | 10 | ロマーン・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟/再任 |
1177-80 | 9 | スヴャトスラーフ3世・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | 再任 |
1180-82 | 10 | リューリク2世・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1182-94 | 9 | スヴャトスラーフ3世・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | 再任 |
1194-1202 | 10 | リューリク2世・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1202 | 11 | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ヤロスラーフ2世の子) |
1203-05 | 10 | リューリク2世・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1205 | 11 | ロスティスラーフ2世・リューリコヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1206 | 10 | リューリク2世・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 父/再任 |
1206-07 | 10 | フセーヴォロド4世真紅公 | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (スヴャトスラーフ3世の子) |
1207-10 | 10 | リューリク2世・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1210-14 | 10 | フセーヴォロド4世真紅公 | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | 再任 |
1214 | 11 | イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1214-23 | 11 | ムスティスラーフ3世老公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロマーン・ロスティスラーヴィチの子) |
1223-35 | 11 | ヴラディーミル4世・リューリコヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟(リューリク2世の子) |
1235-36 | 11 | イジャスラーフ4世・ヴラディーミロヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | |
1236-38 | 10 | ヤロスラーフ3世・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド3世大巣公の子) |
1238-40 | 11 | ミハイール・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (フセーヴォロド4世紅公の子) |
1240 | 12 | ロスティスラーフ3世・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの子) |
1240-46 | 11 | ミハイール・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | 再任 |
1246-63 | 11 | アレクサンドル・ネフスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ヤロスラーフ3世の子) |
-1303 | ─ | 府主教マクシーム | ─ | |
1300s-30s | 13 | ヴラディーミル・イヴァーノヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | (イヴァン・イヴァーノヴィチの子)? |
-1321? | ? | スタニスラーフ | ? | 弟? 子? |
-1362 | ? | フョードル | ゲディミノヴィチ? | (リトアニア大公ゲディミナスの弟)? |
1377-95 | ─ | ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1394-97 | ─ | イヴァン(異教名スキルガイラ) | ゲディミノヴィチ | 弟 |
─ | イヴァン・ヴラディーミロヴィチ? | ゲディミノヴィチ(ベリスキイ家) | 甥(ヴラディーミル・オリゲルドヴィチの子) | |
1443-54 | ─ | オレリコ・ヴラディーミロヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ家) | 兄 |
1454-71 | ─ | セミョーン・オレリコヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ家) | 子 |
ドレヴリャーネ人の公 князь Древлянский
ドレヴリャーネ人は、キエフの北西部に住んでいたスラヴ人集団。長くオレーグ、イーゴリに敵対し、イーゴリを殺した。しかしその未亡人オリガに屈服。その歴史に鑑みて、その後しばらくは独自の公が立てられた。しかしやがて平定も進み、公は存在しなくなる。ドレヴリャーネ人が年代記で最後に言及されるのは、1136年のことであった。
-945 | ─ | マール | ─ | |
969-977 | 4 | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | リューリコヴィチ | (ヴラディーミル偉大公の兄) |
988-1015 | 5 | スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | リューリコヴィチ | 甥(ヴラディーミル偉大公の子) |
オーヴルチ公 князь Овручевский
オーヴルチ Овруч はキエフの北西、現ベラルーシとの国境に近い都市(ウクライナ共和国ジトーミル州)。地理的には、キエフ公領とトゥーロフ公領の境に位置している(キエフとトゥーロフのちょうど中間地点)。
977年、ドレヴリャーネ人の公オレーグ・スヴャトスラーヴィチの死んだ場所として年代記に登場(ただし名前はヴルーチー Вручий)。ドレヴリャーネ人の公の住居があったのだろう。キエフ公領とトゥーロフ公領とが完全に切り離されるのは、トゥーロフ公領がイジャスラーヴィチのヴォーッチナとして認められた1157年のこと。同じ年、リューリク・ロスティスラーヴィチがオーヴルチ公として年代記に登場する。リューリク・ロスティスラーヴィチはその後キエフ大公となるので、これによりオーヴルチは最終的にキエフ公領となった。
リューリク・ロスティスラーヴィチの子孫はキエフ公領にヴォーッチナを持っていたと想像される。年代記には記されていないものの、ヴラディーミル・リューリコヴィチもロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチもこのヴォーッチナを拠点としていたと見られる。これがどこかははっきりしないが、おそらくオーヴルチであったろう。
1362年、キエフ共々リトアニアに征服される。
1157-94 | 10 | リューリク・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1219?-23? | 11 | ヴラディーミル・リューリコヴィチ? | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1223?- | 12 | ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ? | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
15c.初頭 | ? | アンドレイ・イヴァーノヴィチ | ? | ? |
15c.半ば | ? | ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ | ? | 子? |
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский
ヴィーシュゴロド Вышгород はキエフ近郊(北部)の都市(ウクライナ共和国キエフ州)。
1078年にイジャスラーヴィチの分領となるが、その後ヴラディーミル・モノマーフに奪われる。以後、モノマーシチが支配。しかし独自の公家が立たず、地理的関係からキエフの衛星国であった。しばしばキエフ大公自身がここに住んだほか、キエフ大公の息子や弟などの親族に与えられ、キエフ大公の交替ごとに支配者も入れ換わった。それでも12世紀後半から13世紀初頭にかけて、スモレンスク系がほぼ一貫して支配している。
1240年、キエフ共々モンゴルに破壊され、年代記からは姿を消す。
1013-15 | 5 | スヴャトポルク・オカヤンヌィイ | リューリコヴィチ | (キエフ大公ヤロポルクの子) |
1077-78 | 7 | ヤロポルク・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | (イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1136 | 9 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ | (ムスティスラーフ偉大公の子) |
1149 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 従兄弟(ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1149-51 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 叔父(ヴラディーミル・モノマーフの子) |
1156 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥/再任 |
1167-80 | 10 | ダヴィド・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1199-1201 | 10 | ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 従兄弟(ムスティスラーフ偉大公の孫) |
1205-10 | 11 | ロスティスラーフ・リューリコヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ダヴィドの甥) |
1210-14 | 10 | ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ? | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (ヤロスラーフ・フセヴォローディチの子) |
ベールゴロド公 князь Белгородский
ベールゴロド Белгород (現名ベルゴロードカ Белгородка)はキエフ近郊の村落(ウクライナ共和国キエフ州)。
ヴィーシュゴロド同様、キエフの支配権を巡る争いに翻弄され、独自の分領として発展しなかった。1240年、キエフ共々モンゴルに蹂躙される。
1117-25 | 8 | ムスティスラーフ偉大公 | モノマーシチ | (ヴラディーミル・モノマーフの子) |
1141 | 8 | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | (オレーグ・ゴリスラーヴィチの子) |
1149-50 | 9 | ボリース・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1151-54 | 9 | ヴラディーミル・マーチェシチ? | モノマーシチ | 従兄弟(ムスティスラーフ偉大公の子) |
1159-62 | 10 | ヴォルィニ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 甥(イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1162 | 10 | ムスティスラーフ勇敢公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟(ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1163- | 10 | ヴォルィニ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 従兄弟/再任 |
1171-73 | 10 | ムスティスラーフ勇敢公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟/再任 |
1173-94 | 10 | リューリク・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 兄 |
1205 | 10 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子) |
1206 | 11 | ムスティスラーフ老公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロマーン・ロスティスラーヴィチの子) |
トリポーリ公 князь Трипольский
トリポーリ Триполь はトレポーリ Треполь とも呼ばれる(現名トリポーリエ Триполье)、キエフ近郊の村落(ウクライナ共和国キエフ州)。
1159-62 | 10 | ヴォルィニ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1162-68 | 9 | ヴラディーミル・マーチェシチ | モノマーシチ | 叔父(ムスティスラーフ偉大公の子) |
1169? | 10 | ムスティスラーフ無眼公? | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの孫) |
1177-80 | 10 | ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | (マーチェシチの子) |
1190? | 10 | ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ? | モノマーシチ | 弟 |
ポローシエ公 князь Поросьский
ポローシエは、ローシ河の流域のこと。ローシ河はジトーミル近郊に発して北東へ、ユーリエフ(現ベーラヤ・ツェルコフィ)で大きく方向転換して南東へ、カーネフの南方でドニェプル河に合流している。
ポローシエ、すなわちローシ河の流域は、キエフ公領の南端部で、キエフ公領、ひいてはキエフ・ルーシにとって対ポーロヴェツ人戦線の最前線に位置した。河口部のカーネフ(実際は河口から少し北に離れるが)から、コルスニ、ボグスラーフ、ユーリエフ、トルチェスクと続く流域の都市は、いわば最前線の防衛拠点であった。ただしその住民は、ポーロヴェツ人に追われたペチェネーグ人、トルク人、ベレンデイ人など、ルーシで «チョールヌィエ・クロブキー(黒い修道帽)» と呼ばれたテュルク系諸民族が多数を占めていたらしい(なお、かれらは基本的にルーシに敵対しなかった)。
ヴァシリコ・ユーリエヴィチに与えられた公領の領域ははっきりしないが、実際にはトルチェスクを主都としたようである。
のち、キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチもこの地域を娘婿のヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ロマーン偉大公に与えようとしている。
1155-61 | 9 | ヴァシリコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1289 | ? | ユーリイ | ? | ? |
トルチェスク公 князь Торческий
トルチェスク Торческ はキエフの南西、ユーリエフ(現ベーラヤ・ツェルコフィ)のさらに南西にあった小都市(ウクライナ共和国キエフ州)。現存しない。
元来はテュルク系遊牧民族の居住地で、トルク(この地域に住むテュルク系民族のロシア語名)からトルチェスクと名付けられた。住民はテュルク系が多数を占めていたが、キエフ公領にとってはさらに南方のポーロヴェツ人との戦いの最前線にあたった。そのためか、キエフ大公の近親者が公に任じられたヴィーシュゴロドやベールゴロドとは少々異なり、有力者(やその近親者)が公に任じられていたように思われる。
1362年、キエフ共々リトアニアに征服される。
1155-61 | 9 | ヴァシリコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1159-62 | 10 | ヴォルィニ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1163-69 | 10 | ヴォルィニ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1169-73 | 9 | ミハルコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1195-1205 | 11 | ロスティスラーフ・リューリコヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (リューリク・ロスティスラーヴィチの子) |
1226-28 | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟 |
カーネフ公 князь Каневский
カーネフ Канев はキエフの南東、ドニェプル河畔の都市(ウクライナ共和国チェルカッスィ州)。
1149 | 9 | グレーブ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1182?-94? | 10 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ? | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子) |
1190s? | 10 | ムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ? | モノマーシチ | (ヴラディーミル・マーチェシチの子) |