リトアニア諸公

ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ゴリーツィン

Василий Васильевич Голицын

公 князь
ボヤーリン боярин (1591-)

生:?
没:1619

父:ヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ゴリーツィン公 (ユーリー・ミハイロヴィチ・ゴリーツィン公)
母:?

結婚:?

子:?

ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。

 フョードル1世治下の1590年代から(ということはつまり、ボリース・ゴドゥノーフの下で)軍司令官として活躍。

 1604年、偽ドミートリー1世に対処するため南方に派遣され、ノーヴゴロド=セーヴェルスキーでの戦闘にも従事している。その後、ロシア軍の司令官(のひとり)として、クロムィ要塞にて偽ドミートリー軍と対峙した。
 1605年、ボリース・ゴドゥノーフの死後、幼帝フョードル2世の下で専横の振る舞いが目立つようになったその親族イヴァン・ゴドゥノーフと対立し、ピョートル・バスマーノフとともにクロムィ要塞のロシア軍を引き連れて偽ドミートリー側に寝返る。偽ドミートリー1世によりモスクワに代官として派遣され、暴動の発生したモスクワをボグダーン・ベリスキーに代わって掌握。フョードル2世殺害にも関与したらしい。

 1606年、ヴァシーリー・シュイスキー公の陰謀に加わり、偽ドミートリー1世を廃位。ヴァシーリー・シュイスキー公をツァーリに就ける。

 1610年には、ザハーリー・リャプノーフとともにヴァシーリー・シュイスキーを廃位した。他の大貴族たちとともにツァーリ位をポーランド王太子ヴワディスワフに提供することを主張。自らその交渉役として、当時スモレンスクにいたポーランド=リトアニア王ジグムント3世のもとに、ロストーフ府主教フィラレート、ザハーリー・リャプノーフらとともに赴いた。しかし、正教への改宗を絶対条件とするロシア側に対して、ジグムントが改宗を断固拒否して交渉は暗礁に乗り上げ、ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ公はほかの交渉団メンバーともともポーランドの捕虜となった。

 1618年にはデウリノ条約が結ばれ、1619年には捕虜たちはロシアへの帰国が赦されたが、ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ公はロシアの地を踏むことなく死去。三度の政変に直接的にかかわり、ツァーリを廃立して、常に勝者の側に身を置いてきたかれだったが、最後はポーランドの捕虜として生涯を終えたことになる。
 ちなみに、にもかかわらず1613年の全国会議ではかれの名がツァーリ候補に挙げられていた。

 弟アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ公は «セミボヤールシチナ» の一員。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 30 11 2012

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
リトアニア諸公
ゲディミナス家
系図
inserted by FC2 system