アンドレイ・フョードロヴィチ・ホヴァンスキー
Андрей Федорович Хованский
公 князь
生:?
没:?
父:フョードル・ヴァシーリエヴィチ・クリヴォーイ公 (ヴァシーリー・フョードロヴィチ・ハヴァーカ公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | |||||||
1 | フョードル | ||||||
2 | エヴフロシーニヤ | -1569 | アンドレイ・イヴァーノヴィチ | 1490-1536 | スターリツァ公 | リューリク家 |
ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。
パトリケーエフ一族だが、イヴァン・ユーリエヴィチやダニイール・シチェニャーを輩出したユーリー・パトリケーエヴィチ一門と異なり、フョードル・パトリケーエヴィチ一門は振るわなかった。アンドレイ・フョードロヴィチも、記録に残る限りでも何人かの分領公のボヤーリンを渡り歩いている。
すなわち、1511年頃からヴォロク公フョードル・ボリーソヴィチに仕えた。しかしかれが1513年に死んだ後はモスクワ大公ヴァシーリー3世に仕えるようになるが、これといった職務に就いていない。代わりに、ウーグリチ公ドミートリー・ジールカのボヤーリンとなっている。1521年にドミートリー・ジールカが死ぬと、今度はスターリツァ公アンドレイ・イヴァーノヴィチのボヤーリンとなった。
ヴァシーリー3世が、自分に跡継ぎのできるまでは弟たちに結婚させなかったこともあり、アンドレイ・イヴァーノヴィチも40を過ぎてもチョンガーだった。1530年、ヴァシーリー3世に待望の男児が誕生。これによりアンドレイ・イヴァーノヴィチも結婚できるようになり、相手として選んだのがアンドレイ・フョードロヴィチの娘エヴフロシーニヤだった。
しかしアンドレイ・フョードロヴィチについては、1533年の娘の結婚を最後に歴史から姿を消す。アンドレイ・イヴァーノヴィチは1536年に摂政政府に睨まれて命を落とすが、この時アンドレイ・フョードロヴィチが何をしていたのかはわからない(あるいはすでに死んでいたか)。