リトアニア諸公

カジミェシュ4世

Kazimierz Jagiellończyk

リトアニア大公カジミエラス (1440-92)
ポーランド王 (1447-92)

生:1427.11.30−クラクフ
没:1492.06.07(享年64)−グロドノ

父:リトアニア大公・ポーランド王ヨガイラ (リトアニア大公アルギルダス
母:ソフィア(アンドレイ・イヴァーノヴィチ・ゴリシャンスキー)

結婚:1454
  & エリーザベト 1438-1505 (ドイツ王アルプレヒト2世)

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
エリーザベトと
1ヴワディスワフ1456-1516ボヘミア
ハンガリー
ベアトリーチェ1457-1508ナポリ王フェランテ1世トラスタマラ家
アンヌ1484-1506フォワ=カンダール伯ガストン2世フォワ家
2ヤドヴィガ1457-1502ゲオルク富裕公1455-1503バイエルン=ランツフート公ヴィッテルスバハ家
3カジミェシュ1458-84
4ヤン・オルブラフト1459-1501ポーランド
5アレクサンデル1461-1506リトアニアエレーナ1476-1513モスクワ大公イヴァン3世リューリク家
6ソフィヤ1464-1512フリードリヒ年長伯1460-1536ブランデンブルク=アンスバハ辺境伯ホーエンツォレルン家
7ジグムント1467-1548ポーランド
リトアニア
ボルバーラ1495-1515サーポヤイ・イシュトヴァーンサーポヤイ家
ボナ1494-1557ミラノ公ジャン・ガレアッツォ2世スフォルツァ家
8フリデリク1468-1503枢機卿
9バルバラ1474-1534ゲオルク髭公1471-1539ザクセン公ヴェッティン家
10アンナ1476-1503ボギスラフ10世ポンメルン公

ゲディミノヴィチ(ヤギェウォ家)。カトリック。リトアニア語ではカジミエラス・ヨガイライティス Kazimieras Jogailaitis。
 ヨガイラの次男。

 1434年、父が死去。ポーランド王位は兄ヴワディスワフが継ぐ。

 1440年、リトアニア大公ジギマンタスが暗殺される。ジギマンタスにはミハウという息子がいたが、1432年のグロドノ条約では、ジギマンタス死後はリトアニア大公位はポーランド王が継ぐものとされており、特にミハウの大公位継承権は明確に否定されていた。
 ポーランド貴族はヴワディスワフをリトアニア大公とし、カジミェシュをその下でリトアニア副王としようとしたが、リトアニア貴族がこれに反発し、カジミェシュをリトアニア大公に選出した。一般的に、これにより1385年以来続いてきたポーランドとリトアニアの連合は(一時的に)終わったと考えられている。
 他方、ジェマイティヤ貴族はミハウを支持。リトアニアは分裂したが、1441年、カジミェシュがジェマイティヤの半独立的な地位を認めて融和。カジミェシュの大公位が確立した。
 ただし、当初は幼年のカジミェシュに代わって、ヨナス・ゴシュタウタスを中心とした大貴族たちがリトアニアを統治した。

 1442年、ヴォロトィンスク公フョードル・リヴォーヴィチと封建主従関係を結ぶ。

 1444年、ヴワディスワフがヴァルナで戦死。ヴワディスワフの摂政でもあったクラクフ司教ズビグニェフ・オレシニツキが中心となってカジミェシュの王位継承を主張した。しかしポーランドとリトアニアの関係は、クレヴァス/クレヴォ条約以来60年を経ても、基本的に変わっておらず、リトアニアを併合したいポーランド貴族と、ポーランドと同盟こそしてもその下風に立つ気のさらさらないリトアニア貴族との対立は残っていた。特に、もはやドイツ騎士団がかつてほどの脅威ではなくなり、リトアニアには正教徒のルーシ貴族が多数生まれていたこともあって、ポーランドとリトアニアの綱引きは長引いた。
 1447年、3年の空位期間を経て、ようやくカジミェシュがポーランド王に選出された。
 なおカジミェシュは、兄が兼ねていたハンガリー王位も継承することを主張するが、ハプスブルク家のラディスラウスが1445年にハンガリー王に選出されていた。もっともラディスラウスはボヘミア王としてプラハに居住しており、ハンガリーの実権はフニャディ・ヤーノシュが握った(そもそもラディスラウスはまだ幼子だった)。

 ポーランドでは、1370年のカジミェシュ大王の死後王位を継いだハンガリー王ラヨシュ大王が、摂政を通じてポーランドを間接統治したこと、その死後幼いヤドヴィガを擁して貴族たちがそのまま統治権を行使し続けたこと、ヤドヴィガと結婚してポーランド王となったヨガイラが、ヤドヴィガ死後はその正統性を失ったため貴族たちに譲歩したこと、ヨガイラ死後に王位を継いだヴワディスワフがまだ幼かったこと、等が重なり、貴族の力は非常に強くなっていた。
 リトアニアにおいても、1377年以後大公位を巡り内紛が頻発し、またポーランドとの同盟を巡って対立が続いたことから、これまた貴族勢力が以前に比べて格段に拡大していた。
 しかしこれはポーランドとリトアニアだけの問題ではなかった。巨視的には、14世紀から15世紀にかけてのヨーロッパではどこでも、貴族の力が大きくなり、これに、古来からの王朝が各国で相次いで断絶するという偶然が重なって、王位継承が貴族によって左右されることが多くなった。たとえ父から王位を相続した王であっても、王位を維持するためには貴族への譲歩を余儀なくされた。その結果、各国の王が他国の王位を狙う事例が増え、各国で王位継承を巡る争いが頻発していた。そのために、各国の王が、国内における王権の強化よりも他国の王位を獲得することを優先する傾向が強まっていた。
 貴族が王位を左右すると言っても、血筋は最大の正統性を持つ。1454年にカジミェシュがラディスラウスの姉と結婚したのも、ボヘミア(とおそらくはハンガリー)の王位獲得を睨んでのことであっただろう。かつて父がボヘミア貴族から王位を提供されたことがカジミェシュの念頭にあったのかもしれない(当時はカジミェシュはまだ生まれていなかったが)。カジミェシュもまた、国内における自身の王権強化よりも、外国における王冠の獲得を優先したと言えるだろう(少なくとも結果だけ見れば)。
 ちなみに、ただでさえ貴族が力をつけているところに、王が他国の王位を狙って国内政策をおろそかにするとなれば、貴族の力はさらに強大化する。しかも他国の王位を狙って戦争を繰り返すことで王室財政は圧迫され、税を徴収するためにますます貴族に譲歩を余儀なくされる悪循環に陥る。この頃から戦争の主役は傭兵へと移行しはじめており、それがさらに戦費の増大をもたらしていた。こうして各国で王権が弱体化すれば、それに伴って中央権力が弱体化し、それがますます地方に根を張る貴族の力を増すことになる。ポーランド=リトアニアにおいても、すでにカジミェシュの治世にその傾向が見られるが、子らの代には王権と、それに伴い中央権力が、徐々に解体していく。貴族たちの拠る議会が一応中央権力として機能したものの、結局ウクライナが中央権力から離脱していくことは避けられなかった。
 モスクワは、このような全欧的な傾向の例外と言っていいかもしれない。15世紀後半以降、モスクワとリトアニアの戦争でほぼ常にリトアニア側が劣勢に立たされたのは、歴代リトアニア大公(ポーランド王)の目が西欧の王冠に向いていたというのもあるにせよ、リトアニア(ポーランド)では王権(中央権力)が弱体化する一方であったのに対して、モスクワでは王権(中央権力)が順調に強大化していったことも一因となっているのではないだろうか。

 1449年、モスクワ大公ヴァシーリー2世と条約を結ぶ。これによりリトアニアとモスクワとの国境を画定し(1408年にヴィタウタスヴァシーリー1世が結んだ条約をほぼ踏襲)、カジミェシュはノーヴゴロドに対する宗主権の要求を放棄した。
 しかしその一方で、いわゆる上流諸公に対する圧迫は強めていく。1450年にモサーリスク公ヴラディーミル・ユーリエヴィチを臣従させ、1459年にはオドーエフ公イヴァン・ユーリエヴィチと封建主従関係を結ぶ。
 とはいえ、ポーランド王となったカジミェシュの目はどうしても西に向く。このためルーシにおけるリトアニアの勢力拡大の勢いは鈍化。それどころかカジミェシュは、これまでリトアニアと友好関係にあったトヴェーリやリャザニ、ノーヴゴロドがモスクワに押さえられていくのを、手をこまねいて見ているだけだった。

 当時プロイセンでは、«プロイセン連合» (都市や地主の同盟)がドイツ騎士団に反発を強めており、皇帝フリードリヒ3世に仲裁を要請したが、拒否されていた。1453年、プロイセン連合はカジミェシュに支持を求めてくる。1454年、カジミェシュは正式にこの要請を受け入れ、ドイツ騎士団に宣戦布告。プロイセン連合はカジミェシュを主君と認めた。こうしてポーランドとドイツ騎士団との十三年戦争が開始される。
 カジミェシュはリトアニアと微妙な関係にあり、リトアニアの支援は期待できなかった。他方リヴォニア騎士団はデンマークとの領土問題を抱えており、ドイツ騎士団もその支援をあてにできなかった。他の周辺勢力も介入する余裕がなく、戦争はほぼ純粋にポーランドとドイツ騎士団との間でおこなわれることとなった。支配下の諸都市や地主に背かれたドイツ騎士団と同じく、カジミェシュもポーランド貴族を完全には統御できていなかった。さらに両者ともに財源に悩まされ、こうして戦争はずるずると長引いた。1457年には、借金のカタになっていたドイツ騎士団の首都マリエンブルクがポーランド側に売却され、カジミェシュは戦わずして敵の首都を手に入れている(もっとも4ヶ月後には奪い返された)。
 この戦争の過程で、カジミェシュはドイツ騎士団を支持する(当然だ)教皇との関係を決定的に悪化させた。

 1456年、ヨナス・ゴシュタウタスが、カジミェシュに替えてセミョーン・オレリコヴィチをリトアニア大公にしようと画策。

 1457年、ラディスラウスが死去。ボヘミアではイジーが、ハンガリーではフニャディ・ヤーノシュ(1456年死去)の子マーチャーシュ・コルヴィンが王に選出された。

 1439年に東西教会の合同が決議されると、これを承認したモスクワ府主教イシードルをヴァシーリー2世が追放。以後モスクワ教会はコンスタンティノープル教会と対立していた。これもあり、1458年、コンスタンティノープル総主教はキエフ府主教座を創設。これによりリトアニア領ルーシは、管轄上モスクワから分離されることになった。

 1460年、再びマリエンブルクを占領。

 1463年、ピオトルクフにて、それまで王と顧問官、諸身分代表から成っていたポーランド王国の会議が、上院と下院(セイム)とから成る議会へと再編された。

 1466年、第2次トルニ条約により、十三年戦争を終結させる。東ポモージェ(西プロイセン)を獲得。東プロイセンはドイツ騎士団領として残したものの、これに対するカジミェシュの宗主権を認めさせた。

 1471年、有力者マルファ・ボレツカヤの主導で、ノーヴゴロドはカジミェシュへの臣従を決議。これに対してモスクワ大公イヴァン3世大帝がノーヴゴロドに侵攻し、これを屈服させる。この時カジミェシュはノーヴゴロドに有効な支援を送ることができなかった。

 1471年、ボヘミア王イジーの死で、長男ヴワディスワフをボヘミア王に選出させる。この時、妃エリーザベトの主張で、次男カジミェシュをハンガリー王とするため、ハンガリーに派遣。しかしこちらは失敗した。

 1478年、イヴァン3世は最終的にノーヴゴロドを併合する。これに伴い、それまでリトアニアが有していた国境付近の都市からの税収権が失われた。ドイツ騎士団とも講和し、ボヘミアの王位継承問題も解決し(ハンガリーが残っていたが)、カジミェシュはようやく東に目を向ける気になったようで、さっそくキプチャク・ハーン(の成れの果て)のアフマトと同盟。これに対してイヴァン3世は、クリム・ハーンのメングリ=ギライと同盟して対抗。70年振りの両者の武力衝突は時間の問題となっていた。
 1479年、イヴァン3世にその弟のアンドレイ & ボリースが反抗。カジミェシュはこれと手を結ぶ(が、この時も有効な支援を送ることができなかった)。
 1480年、アフマトがモスクワに侵攻。カジミェシュはこれと合流しようとするが、イヴァン3世の要請でメングリ=ギライがポドーリエに侵攻。カジミェシュはこれに対処するため、アフマトに支援を送ることができなかった。こうしてカジミェシュを無力化させたイヴァン3世はアフマト軍を撃退し、こうして «タタールのくびき» に終止符を打った。
 アフマトは、腹癒せに、帰途上流諸公領を荒らしまわった。ただでさえカジミェシュに不満を募らせていたルーシ諸公の中で、フョードル・イヴァーノヴィチミハイール・オレリコヴィチ、イヴァン・ユーリエヴィチ・ゴリシャンスキーがクーデタ計画を企てた。しかしこの計画は1481年に露見し、ミハイール・オレリコヴィチとイヴァン・ゴリシャンスキーが処刑され、フョードル・イヴァーノヴィチがモスクワに亡命した。
 カジミェシュはイヴァン3世に1449年の条約に換わる新たな条約の締結を提案するが、交渉は暗礁に乗り上げる。1482年には、メングリ=ギライがキエフスカヤ・ゼムリャーに侵攻し、これを荒らしまわった。イヴァン3世はマーチャーシュ・コルヴィンと同盟を結ぶ。
 1483年、カジミェシュはイヴァン・ミハイロヴィチ等ヴォロトィンスク諸公と封建主従関係を結ぶ。さらにトヴェーリ大公ミハイール・ボリーソヴィチもカジミェシュに接近してきて、徐々にモスクワ包囲網をつくりあげていった。
 他方、当時オスマン帝国はバルカンに勢力を拡大しつつあり、モルドヴァ公シュテファン3世偉大公は、1480年にイヴァン3世に接近してくる。1483年にはその子供同士を結婚させて関係を強化させたが、当時のイヴァン3世に、真剣にモルドヴァを支援しようという気があったとは思えない(モスクワとモルドヴァの間には広大なリトアニア領ルーシが広がっている)。シュテファン3世は早くも1484年にはイヴァン3世を見限ったか、カジミェシュを主君と認めて支援を要請した。
 1485年、イヴァン3世がトヴェーリに侵攻し、これを併合してしまった。カジミェシュはミハイール・ボリーソヴィチを受け入れるものの、トヴェーリ奪回軍を起こそうとはしなかった。まさにこの年、オスマン軍はモルドヴァの首都スチェアヴァを陥とし、モルドヴァを屈服させた。
 やはりカジミェシュはポーランド王として、ポーランドの利益を優先したとしか言いようがない。トヴェーリ奪回どころか、カジミェシュはイヴァン3世に対オスマン共同戦線を提案してさえいる。

 しかしカジミェシュの思惑とは無関係に、リトアニア・モスクワ国境地域の上流諸公の間で、勝手に戦闘が始まった。もともと上流諸公領は、形式的にはリトアニア領でもモスクワ領でもなく、時々の情勢に応じて «強い方» に着くのが常だった。14世紀後半はドミートリー・ドンスコーイであり、15世紀初頭はヴィタウタスであり、15世紀半ばはカジミェシュであった。だからヴィタウタス死後、リトアニアでもモスクワでも内紛が頻発していた時期は、特にどちらにも着いていなかった。当然、かれらはリトアニア大公とかモスクワ大公とかとは異なる独自の思惑で動いている。それは、たとえばオドーエフ諸公の間における年長権を巡る争いであり、ヴォロトィンスク公スタロドゥーブ公との国境争いであった。これにイヴァン3世が巻き込まれ(口を挟み)、敵対する側がカジミェシュに泣きつくという形で、リトアニア・モスクワ戦争がなし崩し的に始まったのである。通常、始まった年は1487年とされるが、リトアニア軍とモスクワ軍が衝突したわけではない。それどころか、公的には両者は依然平和状態にあった。
 一旦衝突が始まると、長年リトアニアが影響力を行使してきた旧ノーヴゴロド公領の南西部を巡っても両者は衝突する。
 上流諸公の勝手な対立から始まった戦争の行方に最も大きな影響を与えたのが、当然ながらその上流諸公の動向である。それまでカジミェシュを、あるいは主君と仰ぎ、あるいは同盟者として頼ってきたかれらが、1489年に大挙してイヴァン3世側に寝返ったのである(必ずしも «寝返った» という単語は適切ではないが)。ヴォロトィンスク公ドミートリー・フョードロヴィチベリョーフ公イヴァン・ヴァシーリエヴィチメゼツク公ミハイール・ロマーノヴィチ等々。次の波はカジミェシュ死後の1493年に訪れ、これがこの «戦争» の行方を決定づけることになった。

 カジミェシュが、上流諸公が次々とリトアニア陣営から脱落していくのを指をくわえて見ていたのも、やはり心が西における出来事に占められていたためであろう。
 1490年、ハンガリー王マーチャーシュ・コルヴィンが死去。20年前に逃した王位を獲得する機会が訪れたわけで、これにカジミェシュは没頭した。マーチャーシュ・コルヴィンには後継者がいなかったものの、庶子(私生児)ヤーノシュがいた。マーチャーシュはかれに後を継がせたいと考えていたが、王妃がこれに反発。強力な王朝の誕生を忌避した貴族たちも反対し、カジミェシュの長男でボヘミア王となっていたヴワディスワフをハンガリー王に選出した。
 こうしてカジミェシュは、リトアニア、ポーランド、ボヘミア、ハンガリー、さらにこれに付随するクロアティアやスラヴォニア、トランシルヴァニア、ベラルーシとウクライナなどを領する広大な帝国の君主となった。

 おそらく、リトアニア語を話せた最後のリトアニア大公。わずか2世代にして、ヤギェウォ家(ゲディミナス家)はポーランド化してしまった。

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最終更新日 01 01 2012

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