リトアニア諸公

アレクサンデル

Aleksander Jagiellończyk

リトアニア大公アレクサンドラス (1492-1506)
ポーランド王 (1501-06)

生:1461.08.05−クラクフ
没:1506.08.19(享年45)−ヴィリニュス

父:リトアニア大公・ポーランド王カジミェシュ (リトアニア大公・ポーランド王ヤガイロ
母:エリーザベト (ドイツ王アルプレヒト2世)

結婚:1496
  & エレーナ大公女 1476-1513 (モスクワ大公イヴァン3世大帝

子:なし

ゲディミノヴィチ(ヤギェウォ家)。カトリック。リトアニア語ではアレクサンドラス Aleksandras。
 カジミェシュの四男。

 1490年、父によりリトアニアに派遣され、父の代理としてこれを統治。

 1492年、父が死去。長兄ヴワディスワフがすでにボヘミア王・ハンガリー王であり、次兄カジミェシュが早世していたため、父の遺志に基づき、三兄ヤン・オルブラフトがポーランド王位を、アレクサンデルがリトアニア大公位を相続した。
 リトアニア議会もアレクサンデルの大公位継承を承認したが、その際、大貴族の特権とリトアニアの(ポーランドからの)独立を確認させられた。

 アレクサンデルの即位時点で、モスクワとの間には戦争が続いていた。ただし変則的なもので、形式的には両国は平和状態にあり、上流諸公が言わば代理戦争を継続している状態にあった。しかし1492年頃から両軍の直接衝突が各所で見られるようになる。特に1493年には、モスクワ軍がヴャージマを占領。しかしなぜかアレクサンデルは積極的な軍事行動に出ようとしなかった。これもあってか、1493年にはベリョーフ公アンドレイ・ヴァシーリエヴィチヴォロトィンスク公イヴァン・ミハイロヴィチメゼツク公セミョーン・ロマーノヴィチ等の上流諸公が相次いでアレクサンデルを見限ってモスクワ大公イヴァン3世に鞍替えしている。
 1494年、イヴァン3世と講和条約を結んだ。これによりアレクサンデルは、プスコーフに対する干渉をやめ、モスクワによるノーヴゴロド、トヴェーリ、ヴャージマの併合を承認し、さらに上流諸公領の大部分に対するモスクワの宗主権を認めた。1408年にヴィタウタスヴァシーリー1世に認めさせ、1449年に父がヴァシーリー2世に確認させた国境が大幅に変更されたことになり、ルーシにおけるリトアニアの勢力は、国境線の上でも大きく後退を余儀なくされた。
 1496年、講和条約に基づいてエレーナ・イヴァーノヴナと結婚。

 1499年、ポーランドとの間にクラクフ=ヴィリニュス条約を結び、新たな連合を締結する。これは1413年のホロドウォ条約をほぼなぞるものであり、リトアニアとポーランドは対等な独立国家として連合を結ぶものとされた。
 しかしすでにリトアニア貴族がカトリックに改宗してから100年以上が経っており、リトアニア貴族のポーランド化は進んでいた。ポーランドに属国扱いされることに反発を覚えても、ポーランドと手を切ることができない現実は、リトアニア貴族のポーランド化を加速させたと言えるだろう。一口にポーランドに対する反発と言っても、カトリックであるリトアニア貴族と正教徒であるルーシ諸公とでは温度差があり、それがシュヴィトリガイラジギマンタスとの内戦でも現れていた。
 こうしたルーシ諸公の不満は蓄積されていたが、あるいはクラクフ=ヴィリニュス条約がひとつの引き金になったのかもしれない。1499/1500年、ベーラヤ公セミョーン・イヴァーノヴィチがアレクサンデルへの臣従を破棄し、イヴァン3世に臣従した。所領を棄てて亡命したわけではなく、領土を保持したままで忠誠の対象を替えたもので、当然これは国境の変更を伴うことになる。のみならず、これにスタロドゥーブ公セミョーン・イヴァーノヴィチノーヴゴロド=セーヴェルスキー公ヴァシーリー・シェミャーキンなどが追随。
 イヴァン3世は当然かれらを受け入れたが、これは1494年の講和条約の違反でもあり、アレクサンデルはイヴァン3世に抗議するも、埒が明かなかった。こうして1500年、リトアニアとモスクワとの間に、再び戦端が開かれた。
 1500年、モスクワ軍はセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの大部分を占領。さらにはスモレンスク方面でも攻勢に出た。これに同調して、クリム・ハーンのメングリ=ギライがヴォルィニ・ポドーリエに侵攻し、クレーメネツ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー、ルーツク、ブレストなどを蹂躙した。
 アレクサンデルはこれに対処するため、1501年にリヴォニア騎士団と同盟しプスコーフへの侵攻を計画したが、その矢先にヤン・オルブラフトが死去。急遽ポーランド王位継承に時間を取られ、ポーランドとリトアニアの間に新たなミェルニク条約を結んだ。この条約は、ポーランドとリトアニアを融合してひとつの国家にするという、クラクフ=ヴィリニュス条約から100%立場を逆転させる内容だった(結局この条約はポーランドからもリトアニアからも批准されず、破棄された)。
 この間、リヴォニア騎士団はプスコーフに侵攻してモスクワ軍を破るものの、アレクサンデルからの援軍がなく、むなしくリヴォニアに退却した。その後、戦闘はプスコーフとスモレンスクに収斂するが、リトアニア・リヴォニアはプスコーフを陥とせず、モスクワはスモレンスクを陥とせず、戦線は膠着化した。その間、メングリ=ギライは自由にガーリチ=ヴォルィニを蹂躙しており、アレクサンデルとしては、まだポーランド王位を継いで浅いこともあって、講和が急がれることとなった。
 1503年、イヴァン3世と講和(正確には休戦)。チェルニーゴフ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキー、ブリャンスク、ゴーメリ、プティーヴリ、ルィリスクなど、旧セーヴェルスカヤ・ゼムリャーのほぼ全土、大公領の約3分の1と言われる広大な領土をモスクワに割譲した。

 1505年、ラドム議会で、«ニヒル・ノウィ nihil novi» と呼ばれる憲章の承認を余儀なくされる。これにより、議会の承認なしに新たな法の制定が不可能となった。同時に、リトアニアの正教貴族にカトリック貴族と同等の権利を与える。

 1506年、タタールが侵攻。寵臣ミハイール・グリンスキー(エレーナの伯父)を派遣し、これを撃退させた。

 ヤギェウォ家でただひとりヴィリニュスに埋葬されている。

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最終更新日 01 01 2012

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