フョードル・リュバルトヴィチ
Федор Любартович
ヴォルィニ公 князь Волынский (-1392)
ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公 князь Новгород-Северский (1393-1405)
ジダーチョフ公 князь Жидачовский (1405-)
生:?
没:1431.06.01−ヴラディーミル=ヴォルィンスキー
父:ヴォルィニ公リウバルタス (リトアニア大公ゲディミナス)
母:オリガ (ロストーフ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
? | サングーシュコ |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではテオドラスないしフィオドラス・リウバルタイティス Teodoras/Fiodoras Liubartaitis。
母親がオリガ・コンスタンティーノヴナであるとすれば(年齢的にもそれ以外考えられないが)、フョードル・リュバルトヴィチの生年は1350年以降である。おそらくは1350年代初頭であろう。
父の死がいつかは不明だが、1385年のクレヴァス/クレヴォ条約の時点では死んでいたものと思われる。フョードル・リュバルトヴィチは父の死を受けてヴォルィニ公となった。
しかしクレヴァス/クレヴォ条約は、ポーランドとリトアニアの合同を定めた条約であり、これによりリトアニアがポーランドから奪った領土を返還することが定められた。それには、父が奪ったガーリチ公領、すなわちフョードル・リュバルトヴィチの領土も含まれていた。当然フョードル・リュバルトヴィチは反発し、クレヴァス/クレヴォ条約を結んだ従兄弟ヨガイラ兄弟やヴィタウタスなど一族と対立する。
1387年にはルーツクを、1392年にはヴラディーミル=ヴォルィンスキーを失陥。
1392年のアストラヴァス/オストルフ条約により、ヴォルィニはポーランドとリトアニアに分割されて、テオドラスは領土を失った(ポーランドがベリズ、ホルムを、リトアニアがルーツク、ヴラディーミルを獲得)。
領土を失ったフョードル・リュバルトヴィチに、ヴィタウタスは、おそらく1393年にノーヴゴロド=セーヴェルスキーを与えたとされる(カリブタスに替えて)。しかしそれも1405年には取り上げられ、ヴォルィニにある小都市ジダーチョフを与えられた。