フョードル・コリアトヴィチ
Федор Кориатович
ポドーリエ公 князь Подольский (1363-93)
ノヴォグルードク公 князь Новогрудский
生:?
没:1414?
父:ノヴォグルードク公カリヨタス (リトアニア大公ゲディミナス)
母:?
結婚:
& エレーナ (ボスニア王ステパン2世・コントロマニチ)?
子:?
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
? | ヴラディーミル | ||||||
? | イヴァン | ||||||
1 | マリーヤ | ||||||
2 | アンナ |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではテオドラスないしフィオドラス・カリヨタイティス Teodoras/Fiodoras Karijotaitis。
1363年、青水の戦いに従軍。兄弟とともに、アルギルダスからポドーリエをもらった。
おそらく父の死後、ノヴォグルードクを相続した。さらに、1380年代末までに兄弟がことごとく死ぬと、ポドーリエの領土を独り占めした。
ただし、ノヴォグルードクについてはよくわからない。1382年にカリブタスに与えられたとする文献があるが、あるいはいずれかの時期に(1377〜79? 1381〜82?)没収されていたのかもしれない。
いずれにせよ、以降のフョードル・コリアトヴィチの活動領域はポドーリエにほぼ限定されていたようだ。
1385年、クレヴァス/クレヴォ条約で、リトアニア大公の従兄弟ヨガイラがポーランドと手を結ぶ。これにより、ドイツ騎士団との和平は終わり、ガーリチ=ヴォルィニを中心に確執の続いていたリトアニアとポーランドの対立も終わった。しかしこの政策転換に、フョードル・コリアトヴィチは反発した。ポドーリエはガーリチ=ヴォルィニの一部であり(あるいはその一部を含んでおり)、おそらくポーランド領を侵食して領土を拡大しようとしていたフョードル・コリアトヴィチにとっては、ポーランドとの手打ちは認められなかったということだろう。
1392年、アストラヴァス/オストルフ条約でヴィタウタスがリトアニア大公となる。フョードル・コリアトヴィチはこれを否認。ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ、カリブタス、シュヴィトリガイラ、モルドヴァ公ロマン1世らと同盟し、これに反抗。しかしフョードル・コリアトヴィチとロマン1世の連合軍はヴィタウタスに敗北し、フョードル・コリアトヴィチはハンガリーに逃亡した。ポドーリエはヴィタウタスに占領され、フョードル・コリアトヴィチはハンガリー王からムカチェヴォ(ザカルパーティエ)を領土として与えられた。