ソフィヤ・ヴィトフトヴナ
Софья Витовтовна
公女 княжна
モスクワ大公妃 великая княгиня Московская (1391-)
生:1371
没:1453.10.27−モスクワ
父:リトアニア大公ヴィタウタス偉大公 (トラカイ公ケーストゥティス)
母:アンナ
結婚:1391−モスクワ
& モスクワ大公ヴァシーリー1世 1371-1425
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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ヴァシーリー1世と | ||||||
1 | アンナ | 1393-1415 | 皇帝イオアンネス8世 | 1390-1448 | ||
2 | ユーリー | 1395-1400 | ||||
3 | イヴァン | 1396-1417 | ? | プロンスク公イヴァン・ヴラディーミロヴィチ | ||
4 | ダニイール | 1400-01 | ||||
アナスタシーヤ | -1470 | オレリコ・ヴラディーミロヴィチ | -1455 | キエフ公(ゲディミノヴィチ) | ||
ヴァシリーサ | ||||||
マリーヤ | ユーリー・パトリケーエヴィチ | (ゲディミノヴィチ) | ||||
5 | ヴァシーリー | 1415-62 | モスクワ | マリーヤ | -1484 | マロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではソフィヤ・ヴィタウタイテ Sofija Vytautaitė。もともとは異教徒であったはずだが、キリスト教徒としての洗礼名しか知られていない。
父は、1382年にドイツ騎士団のもとに身を寄せた時、あるいは1386年のポーランドとの合同に際して、カトリックに改宗したと言われる。だとすると、おそらくこの時ソフィヤ・ヴィトフトヴナもまたカトリックに改宗したのではないかと思われるのだが、よくわからない。
タタールの捕虜となっていたヴァシーリー1世が、逃亡して1386年にリトアニアへ。ここでヴァシーリー1世とソフィヤ・ヴィトフトヴナとは出逢い、結婚の約束をしたとする文献がある。
当時リトアニア大公ヨガイラと、ソフィヤの父ヴィタウタスとは微妙な関係にあり、ヨガイラと敵対するヴァシーリー1世(と言うかその父ドミートリー・ドンスコーイ)にとってもヴィタウタスとの関係強化は望むところだったろう。
ドミートリー・ドンスコーイ死後の1391年、跡を継いでモスクワ大公となっていたヴァシーリー1世と結婚。なお、当然この時(まで)に正教に改宗したはずである。
夫の存命中は、ソフィヤ・ヴィトフトヴナについてはあまり記されていない。しかし1425年の夫の死後、跡を継いだ息子ヴァシーリー2世がまだ幼年であったことから、その後見を託されたソフィヤ・ヴィトフトヴナの役割が大きくなった。
まず、当時はまだ長子相続制がルーシでは確立しておらず、年長権に従って、義弟のユーリー・ドミートリエヴィチがモスクワ大公位継承を主張した(ドミートリー・ドンスコーイの遺言という問題もあった)。これに対してソフィヤ・ヴィトフトヴナは、同じくヴァシーリー2世の後見人となった府主教フォーティーと協調して対抗するとともに、父ヴィタウタスにもヴァシーリー2世の後ろ盾となるよう説得した。こうしてソフィヤ・ヴィトフトヴナにより、モスクワの内戦は一旦は回避された。
1430年、父ヴィタウタスが死去。フォーティーもいまは亡く、勢力バランスは大きく変わった。1431年、ヴァシーリー2世とユーリー・ドミートリエヴィチは同時にサライに伺候。ハーンの裁定はヴァシーリー2世に下り、モスクワ大公位を巡る争いには決着がついたかに見えた。
1433年、ソフィヤ・ヴィトフトヴナはヴァシーリー2世を、マリーヤ・ヤロスラーヴナと結婚させる。ソフィヤ・ヴィトフトヴナとしては、その兄(?)ヴァシーリー・ヤロスラーヴィチをヴァシーリー2世の与党として確保しておこうと思ったのだろう。
しかし実はすでにヴァシーリー2世はサライにおいて、最有力のボヤーリンであったイヴァン・フセヴォロージュスキーに、その娘と結婚することを約束していた。このため、怒ったイヴァン・フセヴォロージュスキーはヴァシーリー2世から離反。
さらに結婚式の宴席で、ソフィヤ・ヴィトフトヴナはヴァシーリー・コソーイの身につけていた帯を没収する。理由はどうあれ、ヴァシーリー・コソーイがユーリー・ドミートリエヴィチの長男であったため、これはTPOを弁えない行為であったと言わざるを得ない。当然、激怒したユーリー・ドミートリエヴィチは、イヴァン・フセヴォロージュスキーを味方につけて、ヴァシーリー2世に対して武装蜂起した。
その後ヴァシーリー2世は、ユーリー・ドミートリエヴィチ(1433-34)、ヴァシーリー・コソーイ(1434-36)、ドミートリー・シェミャーカ(1446-53)と叛乱に悩まされ、3度にわたってモスクワを奪われ(1433、1434、1446)、目までつぶされている。もちろんこれらの叛乱の原因はさまざまだが、すくなくとも勃発のきっかけをつくったのがソフィヤ・ヴィトフトヴナであったことは否定できない。
息子がモスクワを失陥した際には、ソフィヤ・ヴィトフトヴナも虜囚の憂き目を見、辺縁の地に追放されたりもしている。
ヴォズネセンスキー修道院に埋葬された。