イヴァン・フョードロヴィチ・ムスティスラーフスキー
Иван Федорович Мстиславский
公 князь
ボヤーリン боярин (1549-)
生:?
没:1586
父:フョードル・ミハイロヴィチ・ムスティスラーフスキー公 (ミハイール・イヴァーノヴィチ・ムスティスラーフスキー公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
1 | フョードル | -1622 |
ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。
イヴァン雷帝の側近 «イーズブランナヤ・ラーダ Избранная рада» の一員。
1552年のカザン遠征、1559年から60年のリヴォニア戦争の、名目上の総司令官。
1565年、オプリーチニナ体制が導入されると、イヴァン・ムスティスラーフスキー公はゼームシチナの «次席ボヤーリン» («筆頭ボヤーリン» はイヴァン・ベリスキー公)とされる。
死に臨んだイヴァン雷帝により、フョードル1世を託された «摂政会議» の一員とされる。
当初ボリース・ゴドゥノーフはイヴァン・ムスティスラーフスキー公に接近しようとしたらしいが、1585年には失脚させる。修道士とさせられ、キリーロ=ベロゼールスキー修道院に流された。