コンスタンティーン
Константин
ポドーリエ公 князь Подольский (1363-85)
チャルトルィースク公 князь Чарторыйский
生:?
没:1389/92
父:?
母:?
結婚:
& アンナ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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アンナと | |||||||
1 | グレーブ | ||||||
2 | グリゴーリイ | ||||||
3 | ヴァシーリイ | 1375-1416 | チャルトルィースク |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではコンスタンティナス Konstantinas。
チャルトルィスキ家の祖。
親については2説あり、ひとつはリトアニア大公アルギルダスとヴィテブスク公女マリーヤ・ヤロスラーヴナとするもの、もうひとつはノヴォグルードク公カリヨタス(母親は不明)とするもの。いずれにしても、ゲディミナスの孫ということになる。
より正確に言えば、コンスタンティーン・オリゲルドヴィチ Константин Ольгердович/Konstantinas Algirdaitis とコンスタンティーン・コリアトヴィチ Константин Кориатович/Konstantinas Karijotaitis とは、ふたりともに存在したと思われる。問題は、どちらがチャルトルィスキ家の祖となったか、である。
1363年の青水の戦いに従軍した諸公の中に、コンスタンティーンという名が見られる。戦勝後、コンスタンティーンはアルギルダスからポドーリエに領土をもらった。
青水の戦いには、アルギルダスの息子たちもカリヨタスの息子たちも従軍している。しかし戦後にポドーリエをもらったのはカリヨタスの息子たち(ユーリイ、アレクサンドル、フョードル)である。アルギルダスの息子たちの中では、まだ領土を持たなかったヴラディーミルがキエフをもらっている(もっとも、キエフをもらったのはもっと後だとする説もある)。
このことからすると、コンスタンティーンはカリヨタスの息子だったのではないかと思われる。
ポドーリエを兄弟と分割統治ないし共同統治していたが、すぐにアレクサンドルとユーリイはヴォルィニに赴き、60年代後半以降はフョードルとコンスタンティーンが統治した。この時期に鋳造された、コンスタンティーンの名が刻まれた硬貨が残っている。当時はまだリトアニア本土でも硬貨は鋳造されておらず、他方でお隣のキエフ公ヴラディーミル・オリゲルドヴィチは独自の硬貨を鋳造していた。
ある年代記によると、ポーランド王カジミェシュ大王がコンスタンティーンに娘との結婚を提案してきたという。しかしコンスタンティーンは、カトリックの影響が強まるのを怖れてこれを拒否した。
カジミェシュ大王は1366年にガーリチ=ヴォルィニに大挙侵攻し、そのほとんどを征服した。自領の保全のため、コンスタンティーンはカジミェシュ大王に臣従を誓った。とはいえカジミェシュ大王は1370年には死に、叔父リウバルタスがヴォルィニを制圧して、コンスタンティーンの分領に対する脅威はなくなった。
1385年のクレヴァス/クレヴォ条約に反発。1386年にポーランド王を兼ねたリトアニア大公ヨガイラを否認。ハンガリーに亡命した。
1389年頃(あるいは1392年)、ハンガリーで死去。
このように、コンスタンティーンは、通常チャルトルィースク公と呼ばれるものの、チャルトルィースクを領有した形跡がない。おそらく実際にチャルトルィースク家の祖となったのは、息子のヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチだったろう。
あるいは、まさにこのことこそ、コンスタンティーン・オリゲルドヴィチとコンスタンティーン・コリアトヴィチの違いであると考える者もある。すなわち、上記はすべてコンスタンティーン・コリアトヴィチに関するものであり、コンスタンティーン・オリゲルドヴィチは無関係である、として、歴史に残らないどこかでコンスタンティーン・オリゲルドヴィチがチャルトルィースクを領有していたと考えるわけである。
コンスタンティーンというのはキリスト教徒としての洗礼名だが、かれがいつ洗礼を受けたかはよくわからない。アルギルダスの子だとすれば、母親が正教徒であったので、あるいは誕生時や幼い時期に洗礼されたとも考えられるが、他方でルーシに領土をもらった際に洗礼されたという可能性もある。いずれにせよ、異教風の名前は知られていない。カリヨタスの子だとすれば、父がすでに正教に改宗していたので、おそらく生まれた時(ないし父の改宗と同時)に正教徒とされたのだろう。