アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ
Александр Васильевич
チャルトルィースク公 князь Чарторыйский
生:?
没:?
父:チャルトルィースク公ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチ (チャルトルィースク公コンスタンティナス)
母:アンナ
結婚:1452
& マリーヤ公女 -1456 (ガーリチ=メールスキー公ドミートリー・シェミャーカ)
子:?
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではアレクサンドラス・ヴォシリエヴィチウス Aleksandras Vosylijevičius、ポーランド語ではアレクサンデル・ヴァシレヴィチ Aleksander Wasylewicz。
リトアニア大公位を巡る内戦(1432-37)において、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチは兄弟のイヴァン & ミハイールとともに、終始一貫してシュヴィトリガイラを支持してジギマンタスと戦った。
しかし内戦は、ポーランドの支援を得たジギマンタスが優勢で、特に1435年のパバイスカス/ヴィウコミェシュの敗戦後は、シュヴィトリガイラを支持したルーシ貴族も徐々に脱落していき、1437年にはほぼ内戦が終結した。
その後もヴァシーリエヴィチ兄弟はシュヴィトリガイラとの関係を維持したらしい。1440年にジギマンタスが暗殺されたが、下手人はヴァシーリエヴィチ兄弟だと言われる。
後継のリトアニア大公に選出されたカジミエラスは、ヴァシーリエヴィチ兄弟を下手人として追求した。
あるいはカジミエラスの追求から逃れる意味もあったのか、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチは1441年にモスクワにいた。ドミートリイ・シェミャーカに接近したと言われる。
1443年にはモスクワ大公ヴァシーリイ2世によりプスコーフに派遣される。プスコーフ市民はアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチに代官としてとどまるよう要請したとか。
1447年にはヴァシーリイ2世の代官としてノーヴゴロドへ。ノーヴゴロド軍を率いて、リヴォニア騎士団やスウェーデンと戦う。
1450年、ヴァシーリイ2世との戦いに敗れたドミートリイ・シェミャーカがノーヴゴロドに逃亡してくる。アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチはこれを受け入れ、その娘と結婚した。しかしドミートリイ・シェミャーカは1453年には死に、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ自身、ヴァシーリイ2世の圧力に屈して、1456年にノーヴゴロドを去ってプスコーフに移った。
1460年、ヴァシーリイ2世がノーヴゴロドに。プスコーフ市民は使節をノーヴゴロドに派遣し、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチを代官として認めるようヴァシーリイ2世に要求した。これをヴァシーリイ2世は、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチが臣従を誓うことを条件に許可。しかしアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチはヴァシーリイ2世への臣従を拒否し、プスコーフを去った。