ミハイール・ドミートリエヴィチ
Михаил Дмитрьевич
トルブチェフスク公 князь Трубчевский
生:?
没:?
父:スタロドゥーブ公ドミートリイ・オリゲルドヴィチ (リトアニア大公アルギルダス)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | |||||||
1 | セミョーン | トルブチェフスク | |||||
2 | ユーリイ | トルブチェフスク |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではミコラス・ドミトリエヴィチウス Mykolas Dmitrijevičius。
知られていることはほとんどないが、おそらく1399年のヴォールスクラの戦いに従軍しているものと想像される(この戦いで父と兄イヴァンが戦死した)。
死去の時点での父の分領がどこかはよくわからないが、一般的には、ミハイール・ドミートリエヴィチは父の領有していたトルブチェフスクを相続し、トルベツコーイ家の祖になったとされる(«トルベツコーイ» とはトルブチェフスキイが崩れた形)。
しかしトルブチェフスクは15世紀前半にはシュヴィトリガイラの領土であり、その後大公領に併合され、1449年にはペトラシュという人物が統治していた。このことから、ミハイール・ドミートリエヴィチはトルブチェフスクを領有しておらず、子らの代になって与えられたものだとする説がある。
そもそも、のちに息子ユーリイがモスクワに亡命した際に、かれの領土はリトアニア大公により没収されている。このことは、トルブチェフスクがかれらの «ヴォーッチナ(父祖伝来の世襲地)» ではなく、«封土(勤務に対する給与としての領土)» であったことを示している、とする考えもある。