イヴァン・ヴラディーミロヴィチ
Иван Владимирович
キエフ公 князь Киевский
ベーラヤ公 князь Бельский
生:?
没:?
父:キエフ公ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ (リトアニア大公アルギルダス)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
フョードル | -1505 | ||||||
セミョーン |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではイヴァナス・ヴラディミロヴィチウス Ivanas/Jonas Vladimirovičius。
ベリスキイ家の祖。
父は1393/94/95年にキエフを追われてスルーツクをもらったが、死亡年は不明。おそらく父の死後は、兄オレリコ・ヴラディーミロヴィチがスルーツク公位を継いでいたものと思われる。
1422年、メルノ条約に署名している。
1430年、リトアニア大公ヴィタウタスが死去。イヴァン・ヴラディーミロヴィチは、後を継いだシュヴィトリガイラを支持。兄オレリコ・ヴラディーミロヴィチも人気があったらしいが、イヴァン・ヴラディーミロヴィチがこれにどう対応したのかはよくわからない。
その後立場を変えたのか、1432年にはジギマンタスのクーデタに参画。さらにその後またまた立場を変え、1435年のパバイスカス/ヴィウコミェシュの戦いではシュヴィトリガイラ側に立ってジギマンタスと戦う。イヴァン・ヴラディーミロヴィチはジギマンタスの捕虜となった。
1444年、ノーヴゴロドに招かれる。しかし当時、公式にノーヴゴロドの公だったのは、モスクワ大公ヴァシーリイ2世であった。このためイヴァン・ヴラディーミロヴィチも、1445年にはノーヴゴロドを追われる。
イヴァン・ヴラディーミロヴィチのその後については知られていない。
イヴァン・ヴラディーミロヴィチを «ベリスキイ» と呼んでいるのは後代の史料だけで、同時代の年代記や記録はひとつとしてかれを «ベリスキイ» と呼んでいない。あるいはベーラヤを領土としたのはかれの子らだけであるのか(子らがベーラヤを領有していたか否かについても疑問は残る)、あるいは記録から姿を消した1445年以降にベーラヤを領土としてもらったのか。
故郷スルーツクに帰ったという可能性もある(兄は当時キエフにいた)。
なお、かれの子とされるフョードルやセミョーンとは少々年代に開きがあるので、この間に1、2世代が失われているのではないかとも考えられる。