リトアニア諸公

イヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキイ

Иван Федорович Бельский

公 князь
ボヤーリン боярин (1522-)

生:?
没:1542.05−ベロオーゼロ

父:ベーラヤ公フョードル・イヴァーノヴィチベーラヤ公イヴァン・ヴラディーミロヴィチ
母:アンナ (リャザニ大公ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ

結婚:
  & ? (ミハイール・ダニイーロヴィチ・シチェニャーテフ公) or (イヴァン・ヤーコヴレヴィチ・ザハーリイン)

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
母親不詳
イヴァン

ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。

 母方を通じて、モスクワ大公イヴァン3世大帝の甥、ヴァシーリー3世の従兄弟にあたる。そのためもあってか、ヴァシーリー3世から信任を受けた。

 1524年、カザン遠征に派遣される。サーヒブ=ギレイはクリミアに逃亡し、カザンを攻囲したイヴァン・フョードロヴィチに対して、カザン市民は講和を要請。イヴァン・フョードロヴィチはこれを受け入れ、撤退した。
 しかしこのカザン遠征は大失敗だった。帰還した兵士は半分。残る半分は、病気や空腹で死んだと言われる。さらに、カザン市民は新たなハーンにサーヒブ=ギレイの甥サファー=ギレイを擁立。カザン・ハーン国に対するクリム・ハーン国の影響力はほぼそのまま残される形となった。イヴァン・フョードロヴィチはヴァシーリイ3世の叱責を受けたが、府主教ダニイールの取り成しで失脚の憂き目を見ずに済んだと言われる。

 1530年、再びカザン遠征に派遣される。この時イヴァン・フョードロヴィチは歩兵を、ミハイール・グリンスキイが騎兵を率いた。カザンは陥落しなかったが、陥落しないうちからイヴァン・フョードロヴィチとミハイール・グリンスキイとの間に、どちらが先にカザンに入城するかを巡る喧嘩が持ち上がった。結局ふたりは妥協し、カザンを陥とさないことで手を打ったと言われる。これが本当なら笑い話にもならないが、当時のモスクワではあり得ない話ではない。
 いずれにせよ、この時はサファー=ギレイが逃亡し、カザン・ハーンにはモスクワに完全に従属するジャーン=アリーを据えることができたものの、イヴァン・フョードロヴィチはヴァシーリイ3世の怒りにさらされ、事実上政治生命を絶たれた。

 1533年、ヴァシーリイ3世が死去。幼帝イヴァン4世雷帝が即位し、その後見人には兄のドミートリイ・フョードロヴィチが任命された。これによりイヴァン・フョードロヴィチも復権。とはいえ、実権は母后エレーナ・グリンスカヤが掌握していた。

 1534年、弟セミョーン・フョードロヴィチがリトアニアに亡命。このとばっちりで、エレーナ・グリンスカヤの嫌疑を受け、投獄された。釈放されたのはその死後、1538年のことである。

 かれを釈放したのは、エレーナ・グリンスカヤ死後に権力を握ったヴァシーリイ・ネモーイ=シュイスキイ公だが、イヴァン・フョードロヴィチは釈放されるとすぐに権力闘争に参画。ヴァシーリイ・ネモーイ=シュイスキイ公の死後に権力を握ったその弟イヴァン・シュイスキイ公と激しく争い、1540年に権力を奪取する。

 1542年、宮廷クーデタで失権。ベロオーゼロに追放され、当地で殺された。

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最終更新日 02 02 2012

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